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建築ノート5

伊東豊雄 「最後の講義」
それまで僕は、大学では「建築は論理的にものを考えること」と思っていた
 
菊竹清訓について
身体的にものを考えること
頭ではなく身体で考える。頭で考えたものは三日で変わってしまう。
 
子ども塾にこの前来た子に「身体で考えることだよ」といったら
後で「身体的にものを考えるということは。どういうことですか?」と聞かれたんです
僕もわからない、どうゆうふうに説明したらわかってくれるかなと思っていたら
女の子のほうから「感じることですよね」
その通りだなと思って・・・。
 
note 身体性・感覚
「言葉」ではなく「感覚」で生物多様性を理解することが大切 養老孟司
 ヨーロッパの人が概念でとらえてきたものを、日本人は感覚としてとらえてきた。そこが日本の文化の大事なところだったはずです。
 概念は最終的に1個になります。例えば、りんごが2つとなしが2つ、合わせて4つあるとする。1個1個見れば、みんな違うでしょう? でもりんごとなしという概念をつくると2個になる。果物という概念をつくると1個になる。もっと他の物を持ってきても、食べ物という概念でくくれる。そうやっていくと、最終的に頭の中は1個の概念になる。それが唯一絶対神です。一番下のりんごもなしも1個1個違うよっていうところを拝んだら、八百万(やおろず)の神になる。
 
坂本龍一vs福岡伸一
「一番身近な自然は、自分自身の身体だ」
――人間の死の場合、そういった物質的な贈与だけでなく、精神的な贈与もなし得るのでは? 『音楽と生命』の中で、特に、「一番身近な自然は、海や山ではなく自分自身の身体だ」という言葉にハッとさせられました。
 
 それは、坂本さんの言葉ですよね。まさに、この名言は心にとどめておきたいです。
 
 先ほど、ロゴス一辺倒の現代社会の行き方について「傲慢だ」と言いましたが、ピュシスはロゴスで語りきれないし、コントロールもできません。私たちは生まれも選べないし、いつ病気になるかも選べない。いつ死ぬかもわからない。私たちの身体をめぐる事象は、予測不可能なことがらに満ちています。私たちが自分の身体というピュシスからの呼びかけに耳を澄ませる時、そのことが分かってくるかもしれない。
 
「ロゴスからピュシスへ」――そこから受け取るべきメッセージは、「威張るな、人間!」です。私は、できるだけありのままにピュシスを記述する新しいロゴス、より解像度の高い表現を求め続けます。そのために音楽や科学があると思うからです。
 
設計のプロセス 伊東豊雄
 近代建築は時間を凍結する空間を目指している部分もあるから、より自然とのギヤップが大きくなりますね。
 
孤独の発明 三浦雅士
サイエンス・フィクション、または隠れたる神
 西洋の神学や形而上学に起因している。絶対者と自己との関係は、そのまま自己と自己との関係であり、そしてこの関係を可視的にしようとしたときに、人間はおそらく人造人間のテーマに遭遇したのである。
 
 タイム・トラベルのテーマは、・・・自己は自己からへだたることによって自己を把握するのであり、このへだたりこそが時間だからである。したがって、時間の混乱は必然的に自己意識の混乱を惹き起こすといってよい。
 
 このようなパラドックスは、西欧的な時間観念にのみ特有な問題であるに過ぎない。直線的な時問の観念が定着してはじめてこのパラドックスはパラドックスたりうるのだ。現在は過去によってつくられ、未来は現在によってつくられる。つくられたものがつくったものに反逆するとどうなるかというこのパラドックスの構造は、したがって、驚くほど人造人間のパラドックスに似ているのである。
 
日本の古典 内田樹×安田登
 まず無意識のうちに身体に刷り込まれている「工学的イメージ」を全部消去する必要がある。そういう近代的な構造物のイメージを払拭したあとにようやく何か別のものが見えてくる気がして…。
 
 「分かる」は「分ける」です。僕たちは分からないことは不安なので、「ああ、これはこうね」と自分の知っているどれかの範疇に分けて、解決したくなります。…とかく僕らは「分かること」を中心に世界を理解しようとするクセがありますが、これは無数にある世界の理解の仕方の一つにすぎず、「分からない」という理解の仕方もあるということも大事なのです。
 
 今までの日本文化は何かということを考えなきゃいけないんじゃないかといろいろ考えていたのですが、…世阿弥のいう「ものまね」というのが日本文化の一つの特徴ではないかと思ったんです。
 
 何より有用なのは他者の心身の同期する能力です。それによって「共身体」を形成する。「共身体」というのは僕の造語ですけれど、複数の人間たちの身体が、一個の多細胞生物のように癒合したかたちのものをイメージしています。
 
 「個人」とか「自我」とか「主体性」とかいう邪魔なものをどうやって消すのかがプログラムの目標なわけで…
 
 被感染力というのは、言い換えると「憑依される能力」のことですけれど、そういうことって、人間以外の生物にはできない。だったら、他の動物にはなくて、人間たけに豊かに備わっている「人間的な本能」なるものがもしあるとしたら、それは個人を超えて、集団として生きることができるという点だと思う。
 
花鳥風月の科学 「真から間へ」 松岡正剛
 もともとモノが動くということと、私たちの脳が動くということと、あるいは感じるということは、ほんとうは"対"あるいは"多対"の現象になっていて、それを今日的な目で見るとアニミズムっぽいとか、シャーマンぽいとかいう話になるんですが、そっちのほうがほんとうなんです。
 
 日本語の「分かる」というのは、「分ける」から派生したという、ぼくにとってもなかなか都合のいい説がある。近代人が「物が分かる」というのは、AとBがいかにちがうかを認識できたときに出発する。ところが、それでは世の中が見えないと考えるところから、「分け」ないで「つなぐ」というオルタナティブな方法が目指される。
 
もののもつ力
東西アスファルト事業協同組合講演録「私の建築手法」より
質疑応答
最初に洞窟のイメージについてお話があって、「中野本町の家」の頃から洞窟のイメージが伊東先生の中で続いてることが分かりました。洞窟のイメージについては、当時から意識していたのでしょうか。
 
伊東「中野本町の家」を30年前に設計していた時には、洞窟をデザインしているとも思っていませんし、地下空間のようなものをつくつているとも思っていませんでした。ただ、内部空間だけにこだわっていました。「中野本町の家」は設計を始めた時には、もっと普通の建築でした。最初、クライアントである私の姉は中庭を挟んでお互いに向かい側が見えるような建物が欲しいと言っていました。設計が進むにつれて、姉も私も、ひたすら閉じる方向に向かっていったのです。閉じることで何か美しい空間ができるのではないかと、お互いに歩み寄っていったのです。完成して多くの人が見にきた時に、「あの外部はなんだ」と言われて、私もはたと、外部に目が向きました。当時考えていたのはそこまでです。
内部だけでは建築は成り立たない。しかし、外形を持たない洞窟のようなところに建築の原点がある。空間、あるいは芸術が発生する、人が思考する原点が洞窟にある。それが建築になるためには、ある形式を持って、外部化される必要がある。パンテオンもそうなのです。20世紀のような均質な空間ではなく洞窟のような建築を成り立たせるには、どうしたらよいのかを、私は日々考えています。
 
note プリミティヴ・洞窟
〝洞窟感覚〟で紡ぐ物語
村上春樹をめぐるメモらんだむ2019~2021 大井浩一
 村上さんは授賞式が行われたイタリア北西部のアルバで「洞窟の中の小さなかがり火」と題して講演した。共同通信の報道によると、この中で、彼は「小説―すなわち物語を語るこーの起源ははるか昔、人間が洞窟に住んでいた古代までさかのぼります」と述べ、「物語」の根源的な普遍性について語っている。以下、要約しつつ共同通信の記事を引用する。
 その昔、太陽が沈むと人々は危険な暗闇を避けて洞窟に隠れ、長い夜を過ごした。そこでは水さな火が燃えていて、誰かが物語を語り始める。
 
 物語は、恐怖や空腹をたとえ一時的であるにせよ忘れさせてくれます。語り手はみんなの反応を見ながら、少しずつ物語の流れを変えていく。(中略)恐らく、世界中の洞窟で同じことが行われていたのでしょう。
 
 それから長い時を経て、小説という表現が生まれ、今ではデジタル画面で小説が読まれるようこなった。
 
 しかし、そこで語られている物語は、本質的には洞窟の火の周りで語られた物語と同じ成り立ちのものです。私たち小説家は、洞窟の語り手の子孫なのです。
 
ヴァーチャル奉祝記事 内田樹
 村上文学の世界性をかたちづくっている要素は何か。私はそれをある種の「神話性」だと思っている。
 人類すべてに共通する物語がある。「昼と夜」とか、「男と女」とか、「神と悪魔」とかいうのはそのような「世界に秩序を与えるための物語」である。それらの物語が語られたことによって、世界は分節され、整序され、有意化され、いまあるようなものになった。もしそれらの物語が語られなかった場合に世界がどのような相貌を示すことになったのか、私たちは想像することができない。「夜のない昼」とか「いまだ性化されていない世界における女性」というようなものを私たちは思い描くことができない。すでに物語的に分節された世界に産み落とされた私たち人間は「分節される以前の世界」には遡ることができないのである。
 けれども、ある種の人々は世界が分節され、有意化され、今あるようなものになったその生成の瞬間に切迫したいという法外な野心をもつことがある。根源的に思考する自然科学者や哲学者たちがそうだ。彼らは宇宙の理法や存在の彼方について(えら呼吸しかできない魚が空気中に身を乗り出すように)許容された棲息条件を踏み超えてまでも思考しようとする。同じように、作家たちの中にも物語がいかなる作為も予断もなしに純粋状態で流出してくるその瞬間に-つまり世界が意味をもって顕現してくるその瞬間に-立ち会うことを切望する人々がいる。
 
 この作家が「私たちはなぜ物語を必要としているのか」という根源的な、ほとんど太古的な問いをまっすぐに引き受けているからである。人間が人間であるためには物語が語られなければならない。このことを村上春樹ほど真率に信じている作家は稀有である。
 
現代的なプリミティヴさの実験 伊東豊雄
 人間は木の上か、洞窟で暮らしていた。いろんな建築家と話し合っても、みんなそこに行き当たります。
 
 人間が海から地上にお目見えするとき
「鳥」になり、「人間」になり、「魚」となる
人間は「樹上」で暮らし、地上には弱い動物であり夜間行動をした    
地上に降りた「人間」は「洞窟」で暗闇と「火」を自由に操り暮らすようになったのではないか
 
 「プリミティヴ」を意識した途端、「樹上」や「洞窟」に向かうものなんですね。
 
note 構造
世界に構造を与える力 内田樹
 「地獄の蓋」に拮抗できるようなタフで、肌理の細かい物語を作らなくちゃいけない。そういうことを人間たちはそれこそ太古から世界中でやってきたわけです。「物語」を書き、読むことの人類学的な機能は宗教や哲学と同じなんです。それは宇宙にひとつの構造を与えるというきわめてプリミティヴな行為なんです。(中略)凡庸な作家は自分が投じられている「構造」には無自覚で、自分がそこに閉じ込められている「構造」の中にそれと知らずに書いている。でも、村上春樹はそうではない。逆に世界に「構造を与える」ことを物語作家の責務だと思っている。(中略)世界中の人がこの同じような話の繰り返しに感動する。笑い転げ、涙を流す。村上春樹と小津安二郎はともに世界的なポピュラリティを獲得しましたけど、その理由は彼らが「世界に構造を与える力」を持っていたからだと思います。
 
夢見るために毎朝僕たちは目覚めるのです 村上春樹
 僕が必要としているのは、そのような物語のストラクチャーなんです。そのような「外枠」の中に、僕自身のものを詰め込んでいきたい。それが僕のやり方であり、僕のスタイルです。
 
 僕が言いたいのは、そのような場合、「僕」と読者の間にたしかな共通の思いがあるということです。物語を通して心が繋がっているということです。それは国籍や世代しはあまり関係のないことのように、僕には思えます。
 
 僕にとって大事なのは、物語がどう変わるかではなくて、何もないところからどういうふうにして、物語が付着していくかということ。みんなは物語を追うことを大事にするけれど、本当に大事なのは、物語と物語を生み出す僕との間の相関関係の推移なんですね。
 
 
 
 

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