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もがり笛の泣く里で

忙しかった一月は行ってしまい、気がつけば二月となっていた。
この二月を逃がさぬように急遽兄貴の住む愛知県田原市まで行ってきた。夜勤明けの朝、新幹線に飛び乗った。寝込んでまた東京まで行ってしまわぬように、パソコンを開き無理やり文字を叩き込んだ。生きるために、食うために書く商業文章は楽しくない。感情のこもらぬ文書を書くのは苦手である。
豊橋駅に着くと珍しく曇り空、うっとおしい気分のまま豊橋鉄道渥美線に乗り換える。もう慣れた道のりである。乗ってくる乗客は大阪のそれとは違い私が落ち着く田舎臭さがあり、大学生たちの会話に懐かしさを感じる。ああ、ここが我が故郷なのかと感じる。

三河田原駅に着いても泣き出しそうな空が続く、駅の無料レンタサイクルを借りて兄の待つ施設に向かった。三河蔵王から吹き降ろす冷たい風は私の頬をかすめていく。ふとこれがいつまで続くのかと考えれば風はさらに冷たさを増したのであった。電線に絡まる風は私に何を言いたいのであったのだろう。今年初めて耳にした虎落笛もがりぶえを今なお私の頭に残している。

障害を持つ親族に悩む方に「それは両親の考えることで、兄弟のあなたは割り切らなければならない」と伝えた。「健全な兄弟であればそれで悩み苦しむ貴方を見て喜ぶことはない」とも伝えた。そうは言い置きながらも私は悩み続け今こうして冷たい風に向かってペダルをこいでいることがなんだか苦業のように思えてきた。

でも考え方なのである。これが私の普通の日常なのである。そう考えればなんてことはない。人と較べる必要もないし、誰もが大なり小なりの苦行を強いられて生きているに違いないと思う。それを苦行と思うか思わないか、そんな簡単なことなんだと思う。

いつもより兄は元気がなく、久しぶりに兄の発作を目にした。不思議であるが、私の心の波に連動しているように思う時がある。脳の障害であるからそんなこともあるのかも知れない。とりあえず、いつも私が元気でいなければならないのである。とりとめのない話をし、時間が来て兄は一人で車いすで戻って行った。いまだ施設は感染予防のために私に兄の部屋まで行くことを許してはくれない。ロビーで見送る私には兄の背中がまた小さくなったように思えた。

玄関を出ると暗い雲は切れ、ここ三河地方らしい冬の高い青空がのぞいていた。
陽を浴びた冬枯れの木立の先に見える地平線、その先の太平洋に続く長い長い砂浜で兄と遊んだ子どもの頃を思い出すと切なくなる。父も母も元気にともにいた。でもこんなことも同じこと、そんな私だけが知る思い出がある、そう思えばいいのである。私が死んでしまえばそれで終わる私だけのいい思いだと思えばいいのである。思い出す切なさを切り取ったその瞬間だけがいつも心に残っていく。そしてそれは幾層にもなって私の心に死ぬまで残り続けるのである。


駅前の立ち飲み屋で熱燗をあおって体を温めた。豊橋市のうずらの卵は生産量で日本一である。でも私はあの可愛らしい鶉の姿を豊橋で一度も見たことは無い。豊橋でざるそばを食べればたいてい生のうずら卵がついてくる。そして専用の殻割り用の丸い穴の開いたハサミを用意してくれる親切なうどん屋もある。(豊橋では「そば屋」と言わず「うどん屋」である)

そして、古い豊川・豊橋市民が知る、今は無き「丸物百貨店」の地下にあった「村田のたこ焼き」を買って新幹線に乗り込んだ。今は駅ビル地下で家族総出なのだろう、高齢の皆さんが元気にたこ焼きを焼き続けている。
新大阪着のこだまはどの時間に乗り込んでも自由席は空いている。いつも2号車に乗っている。新大阪に着いた時には乗客は私一人だった。
いつも至福の私の1時間40分である。

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