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春の月

早春の夜道を一人歩いた。
桜の蕾はまだ固く、月あかりを受けるのは足元の黄色い菜の花だった。
終電をのがしてとぼとぼ歩いた川の土手。
酒に焼かれた喉は乾き、冷たいミネラルウォーターの自動販売機などまだ登場していなかった。
公園の水飲み場の蛇口をひねり一人冷たい水を飲んだ。
遊ぶ子も見守る親もいるはずはなく、公園の真ん中で一人水を飲んだ。
視線を感じ仰ぎ見るとオレンジ色の月が俺をジッと見ていた。
この先のすべてを知ったかのようなしたり顔で俺をジッと見ていた。
なにも言わず穏やかな顔で俺をジッと見ていた。
その夜から俺について来た。
いつも俺をジッと見ていた。
この月の視線を感じながらどれだけ歩いて来たのであろう。
東京に住んでも、京都で仕事しても、大阪にやって来てもこの時期いつも視線を感じた。
春の月、どこにいようと春の月はだまって俺を見ていたのだ。
父が死に、母が認知の境を彷徨うときもいつも春の月はそこにいた。
疲れて外で天を仰ぎ見ると春の月はいつも俺を見ていた。
ずっと前からこの結末は知っていたよと春の月はそこにいた。
でも、もう終わりだ。
初めてお前に会ったあの頃の俺に戻ろう。
まだ何も知らずにお前の顔をまじまじと見た、あの頃の俺に戻ろう。
あの頃のように早春の外海で一晩中山風に当たりながら投げ釣りをしよう。
海とお前しかいない春の夜だ。
その時は俺がお前を見ていてやる。
お前の寂しい顔をずっとずっと見ていてやる。

いつまでもそこに佇む君の影我が命尽きるまでも無くなるまでも

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