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歳をかさねる

歳を重ねるってのは素敵な言葉だと思う。
でも、子どもの頃に自身がこんなに長生きするなんて思ってもいなかったと言う人が多いんじゃないだろうか。
たぶんそれは、歳を重ねることに想像がつかなかった、ということではないだろうか。

私はそうであった。
どんな世の中になっているか想像もつかず、何を職業として選択するかも想像がつかず、ましてや自分の身体が老化するなんてことに思いが到達するはずがなかった。
ただ、なんとなく兄とはともに生きて行く気がしていた。
だから、家で出来る仕事を考えた時期があった。
中華のコックはその一つ、パソコンもインターネットも世に存在しない小中学時代には家で出来る仕事ってのはそれくらいしか思いつかなかった。

考えれば、その頃すでに、今で言うヤングケアラーをやっていたんだと思う。
母の姿を見ていて強制されたわけではないのだが、自然とそういう考えが自身に根付いていった。
母の言葉が記憶によく残っている「お前の人生だから、自分がやりたいことをやれ」と。

人間不思議なもので、加えてその頃はまだ素直だった。
だからなおさら母のその言葉を受け入れることが出来なかったように思う。
考えなくてもよい兄貴の将来まで子ども心に染みつけてしまったのだ。

しかし、結局私が面倒を看ることは出来ず、両親の看病・介護があってそんなことは不可能で、自分が潰れてしまう寸前までいってしまったのだ。
これが現実であり、家族の介護の実態である。

親は子の性格を見極め、余計な荷物を背負わさせないようにすべきであろう。
子どもの可能性は100%の状態で社会に送り出してやらねばならないと思う。
そのために親は世の中を知らなければならない、世の中の仕組みを知らなければならない。
そうすれば、たとえ一人で生きにくい子ども達であろうとも、かける負担をゼロとはいかなくとも軽減することは出来るはずである。


最近電車に飛び乗ると、目の前の女子高生が「どうぞ」と席をゆずってくれた。
その時には優しい娘さんだなと何も考えずに座らせてもらったが、すぐ二、三日あとにも同じことがあった。
そこで初めてハタと気がついた。
私の息子より若い娘さんに、おじいさんに近いおじさんが立ってる、と思われたのだろう。
たまたまその一週間、極限まで睡眠時間を削っていた。
鏡を見るといつもより疲れた顔をしていた。
ショックであった。「次の駅で降りるからいいよ」と断り、降りなくてもよい次の駅で降りた。

誰もが好もうと好まなくとも歳は重ねる。
ただ、一人で重ねているのではない、ということを考えるべきだと最近思うのである。

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