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人を待つ時間

昨夜の関西はぐずぐずの雨模様だった。
たまってしまった仕事を朝から片付け、夕方人と会うためにとある場所まで足を運んだ。久しぶりにお会いする方、遅れるわけにはいかず余裕を持って出かけたが、あまりに早くついてしまった。初めて降りる駅であった。
初めての町に行ったら必ず駅の周辺をウロウロすることにしている。ゼネコン営業マン時代からのクセである。町にはそれぞれの特性がある。歴史があっての町の成り立ちがある。住んだ人たちによって作られるのが町であろうが、町が住人を育てるようにも思う。

その駅の沿線鉄道のオーナーが住んでいたその町は私の想像のような町であった。夕方の雨のなかは本当に用事のある人しか外を歩いていない。仕事の帰りの人はまだまばらな時間だった。雨だから仕方がない、誰もが早足である。子どもたちの待つ家に急ぐのであろうか若いお母さんが仕事帰りであろう、大きな荷物を下げてスーパーマーケットから出て来た。週末でホッとしていたのだろうか、なんだか口元が緩み緊張が解けて優しくなったかの顔つきのお母さんだった。そしてやはり早足で去っていった。そんな姿は私に多くを彷彿させる。

小学校の帰りがけ遊び惚けて遅くなった時、職業婦人だった母と一緒になったことがあった。仕事を終えた母の身体からは消毒液のにおいがした。買い物をして来た自転車のカゴの袋から大根が顔を出していた。母は「ひでき、おかえり」と私の背後から声をかけた。思い出すのはそのシーンだけである。看護師だった母の消毒液のにおいと大根、夕方の赤い陽を思い出す。

どの町にもにおいがあれば空気もある。そのにおいや空気は嗅覚で感じる匂いや臭いじゃない。私の五感以外のセンサーが感じるにおいである。いや、ひょっとしたら五感の複合で感じているものなのかも知れない。
そのあと、そのスーパーマーケットをぐるりと一周して待ち合わせの場所に戻った。
久しぶりに会ったその方の近況をお聞きし、私の日常を話し杯は重ねられ、本題を話ししてお別れした。電話で済ますことができないこともなかったが、お会いしてよかった。その時の話で町のイメージも出来上がっていく。
にぎやかな繁華街が駅前にある町じゃない、住宅地に必要最低限の店舗が貼り付いたような高級住宅街であった。

誰も乗ることのない時間に列車の到着を待ち、一人乗り込み帰路についた。
時間はどの町にいても流れる。私の移動中にも、どこにいても時間は流れる。そして今、自室でキーボードを前にしていても同じように流れる時間を不思議に感じる。
そんな時間のなかにいて、人との待ち合わせの時間を考える。人を待つ私の手帳に載ることのない空白のような時間をなんだか不思議に感じたりする。


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