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老人と桜

大阪は八尾の公園、月曜の休みに用足しをする帰りに目に入った葉桜。
桜の名前は知らない。きれいだなと思い自転車を止めてスマホを向けていると、お一人の高齢の方が私の視界に入って来た。こちらに気付きながらもその足を止めず、ずかずかと入って来るのが何とも大阪らしい。
たおやかな一本の葉桜と大阪の老人。

細い葉桜はまだまだ若いのであろうか。桜の寿命は人のそれと変わらぬと聞いたことがある。ならば若い桜に惹かれ老いらく恋に落ち、私の存在など目に入らないのであろうか。

墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし

憧れないこともない川田順の歌である。

木の年齢を人間の年齢に換算することはしないのだろうか。小動物の年齢はよくそう比較する。18年生き亡くなった愛猫ブウニャンは人間の年齢では90歳に近かったという。
植物も動物と同じで大きくなるほど長生きのようである。屋久杉の2千年、3千年は有名な話で、アメリカ大陸のメタセコイアは5千年という。その巨木の姿はほぼ日本列島しか知らない私には想像もつかない。一年草の野に咲く草花はその一年が一生なのであろうか。私たちが四苦八苦、汗水たらして生きる80年、90年を一年間で終えてしまう。彼ら彼女らにとっては凝縮した一生なのかも知れないが私には私たちと同じ時間しか流れていないように見える。
一回きりの春夏秋冬しかくぐり抜けることの出来ないその一生は長いのであろうか短いのであろうか。そう考えていると散り際の潔さを褒め称えられる桜よりも野に咲く一凛の花の方が潔く思えてきた。

誰もが死ぬが、死ぬのは生きたことを残すためなのかも知れない。そしていずれはその生きたことも忘れ去られてしまうのであろうが、何かがずっと堆積していくように思える。早くこの世を去って行った仲間たちは皆私よりたまたま短い一生を定められていただけだったと思えるようになった。だから悲しむことは無いのだと。

大江健三郎の訃報を聞き、大学入学前魚市場にいた頃に時代の流れで齧った著作を思い出し、知的障害を背負って生まれたご子息を兄と重ねて大江健三郎を見ていたことを思い出した。
いつしか忘れ去っていたが、日々の生の戦いのなか、本棚にある著作を目にしその頃の気持ちに帰ることもあった。

そんな気持ちを思い出せることが不思議である。とうに忘れてしまっていてもなんの差し障りも無いことである。でもそれが人と植物の違いなのかも知れない。いや、ひょっとして3千年、5千年生きる巨木たちはその目にしたことを記憶に刻み付けているのであろうか。だとしたら、巨木たちは辛さ、しんどさと闘って生きているのかも知れない。全ての樹に与えられることの無い選ばれし者たちだけに与えられる大きな使命を帯びているのかも知れない。

八尾の桜は幸せそうだった。八尾の老人のことをどう思っているかは別にして自分の生を楽しんでいるかのようであった。老人が帰った後には子ども達が集まり歓声をあげて遊び、それをニコニコしながら見守り、暖かくなった月夜にはベンチに腰掛ける若い二人の将来を祈ってくれるのであろう。
長く生きれば多くを見なければならない。人と同じ長さを生きる桜が一番幸せなような気がする。


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