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咲けば散る、春は去る、

清明、子どもの頃からまあまあ漢字が好きである。
この時期に春は私たちに清らかな生の喜びを振りまいてくれる。 
日に日に陽は明るさを増し季節の移ろう躍動を感じさせてくれる。
清明はそんなこの時期にちょうどよい文字である。
不思議である。毎年この時期を通過しているのだがこの喜びや躍動感が薄れ行くことはない。それどころか歳とともにそれは濃さを増すこともあるように思えるのである。 

高校一年の同級生に森清明という男がいた。明るく快活な男であった。真面目で嘘をつかずクラスで彼を厭う者はいなかった。スポーツもできた。足が早くテニス部に入っていた。特に目立つわけでもないのに、とにかくいい男だったのである。名は体を表すというが、実に清明というそんな表現を実証するために存在しているのかと思えるような男だったのである。

子どもの頃に見た日めくりで、清明という言葉を知っていたから、森清明の名は、かれこれ半世紀近くも私の記憶にとどまり続け、毎年この時期になると浮上してくるのである。
考えてみれば、なんとも得な名前である。こんな名を授けたご両親か、命名した人は偉いと思う。宮島秀樹なんて誰も記憶に残す名前ではないであろう。名前は大事であるとしみじみ思う。

寒かったり暖か過ぎたり、我儘に春は駆け去ろうとしている。でも、きっとこの春も私たちの記憶に残りたいのであろう。ひさびさに卒業式には硬い蕾を桜に命じ、今年の新入生たちには桜をプレゼントする、お前の魂胆は分かっている。みんなお前を称えるだろう。そんな言葉を耳にしてからお前はここから去ればいい。でもお前は気付いていないであろう。振り向くことを知らぬお前に気付かぬことがある。

桜は咲いたら散るんだよ。

にも語らず咲く桜、そのまま散るが世の桜、散るが桜の世の姿

我に勝る者は無しと、一直線に進むお前の目に今年の桜は入らない。散るを潔く進む桜が清明なんだよ。本来の桜の持つその姿を目に焼き付けずに剛腕で過ぎ去ればいい。清明なんて控えめの言葉じゃ、本当はお前は嬉しくなんかないんだろ。もっと猛々しく、もっと勇壮に春を誇って去りたいんだろ。
「あばよ」、でもな、お前に似合うのは違うんだ。決して勘違いしないでおくれ。お前の父さん母さんも、爺さん婆さん、ご先祖様たちは、みんな地を這うようにしてやって来たぞ。気がつけばやって来ていて、私にかじかんだ手、かさかさだった手を擦り合わさせてお前がやって来たことを知ったんだぞ。でも、もういい行けよ。すべては経験だからな。

咲けば散る、春は去る、清明を知る春はまたやって来る。

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