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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭され、促されて営業に移ったのである。でもこの時の京都営業所営業課での所属は1週間だけであった。どうせやるなら大阪支店で勉強して来いと新しく代わった営業所長に背を押され、大阪支店営業部に送り出されたのであった。
そしてこの後私の出会った多くの先輩達は皆アクが強く、皆強烈に仕事の出来る男たちばかりであった。
その中でも私はこの「K」という営業課長を忘れることが出来ない。


私の営業人生の起点とも言える『K』という営業課長の話

その頃の営業部はトップが思い付きで簡単に組織替えを出来るような今では想像出来ない旧態依然とした組織であった。官庁営業グループは、半数に近い官庁からやって来たOB達、そして大型土木現場を終えた現場所長の上りポストとしてやって来たにわか営業部長達、それから少しの生え抜き営業マン達と談合担当の人達だった。
民間営業グループの人数は官庁営業より少なかった。部長、課長、主任、課員でのワンセットが基本のチームとされていたようであったが、形の整ったチームは私が課員として入ったそのチームだけだった。
29歳の課員の私が営業部で一番年下だった。その中で民間営業担当の「K」営業課長の所属するチームが民間営業の中ではメインとなるチームであった。
そして、官庁工事で会社が食っていける時代は終わっていたが、まだまだ民間営業を軽んじた風潮が残っていた。

「K」課長は営業部の中で目立っていた。身長は180センチ、優しい話術と甘いマスク、なによりも頭が良かった。昔ながらの泥臭い足で稼ぐ営業も行いながら、当時まだ誰もが手を出さなかった土地区画整理事業を自身が中心になって行い、会社に土地を買わせて地権者となり利益を手にし、その他の地権者をまとめて大手スーパーを誘致して建設工事を請け負った。

「K」課長に私は多くを教えられ、課長は教えることが好きな先輩だった。まだ外回りに連れていってもらえぬ私は社内で関係書類を端から端まで目を通すように言われた。そしてまだ意味の分からぬ書類の感想文を夕方書かされた。そしてグループの打合せが終わってから必ず京橋の安い居酒屋で打合せの続きがあった。何もわからぬ私はここで一から質問し、分かりやすく教えてもらった。毎晩の飲み代はもちろん課長の自腹であった。

しばらくして「K」課長と一緒に外回りが始まった。「メモは取るな」と言われた。訓練だというのである。建築土木の専門用語以外にも不動産、金融の言葉、日時などの当たり前の言葉や金、数量などを頭に入れるのは非常に大変だった。それを帰社後、記録した。ワープロも一般的でなかった時代である。ボールペンで手書きの報告書である。1字でも書き損じれば書き直しだった。打ち合わせによっては支店長も目を通す報告書もあり仕事が終わるまでいつも緊張の連続だった。

しばらくしてそれに少し慣れてくると、「K」課長と相手のやり取りに隠された駆け引きまで頭に入れて、報告書も出せる内容、出せない内容を考えながら作らなければならなかった。責任の付きまとう報告書も書かねばならぬようになって、この頃から胃薬が手離せないようになっていった。そしてこの時期に神経性の腸炎にかかり、1週間で10㎏体重が減った。でも通院の1日しか休まなかったと思う。医者には「潰瘍になったら治らないよ」と言われたが、私の性格上休むわけにはいかなかった。
こんな無理をしていたからだろうか、私は早く仕事を覚えていったようであった。

私はこの「K」課長を信奉し、課長に案内してもらったご自宅と同じ町内に人生で初の、一軒目の家を買った。公団が開発した奈良のニュータウン、大きな公園がいくつもあり、休日は息子と過ごせる自然があふれた過ごしやすい場所であった。息子が中学をやめるまでの10年間をそこで過ごした。


人間の本質なのか、段階を追って行くと人間は皆そうなっていくものなのか私にはよく分からない。
しかし、形は違ってもそう変わっていく人間の方が私の周りには多かった。

「K」課長は大きな仕事をいくつも成功させていった。そして、そこで悪い現場所長に出会うのである。
課長の取って来る仕事は儲かる現場だったのである。ずる賢い現場所長は課長にすり寄り、課長の心の隙に入っていったのであろう。私は今でも課長がもとからそんな人間だったとは思いたくないのである。私が一人で外回りを始めると、夕方外で会うことが多くなった。もちろん課長にご馳走になるのだが店のグレードが上がっていった。給料も十分もらっていたであろうが、粋な小料理屋に行き、高級焼肉店に行き、必ず北新地のクラブに行くようになっていた。

京橋の場末の居酒屋でご馳走になっていた頃にもたまに北新地まで行ったが、おばちゃん一人のスナック、いつも課長は1万円札1枚しか出すことは無かった。そしてタクシーで一緒に帰る時には課長の腕時計の皮のベルトがずいぶん傷んでいるのが気になった。「俺に金を使うならベルトを替えればいいのに」と、いつも思ったのである。

いつしか課長はベルトばかりか腕時計そのものをブランド物に替え、吊るしのスーツは高級仕立て、靴もネクタイもピカピカに変わっていった。

こんな話はよくあるのであろう。こんな男を何人も見てきた。
でも「K」課長は私の心の師であった。だから信じたかったが、クラブの特定の女の子と特別な関係になったことを私はたまたま知った。そして自宅に帰らなくなったのを私だけが知っていた。

それからしばらくして「K」課長とは離れ、私のいたゼネコンの歴史上でもまれに見る仕事の出来る、キョーレツな、部下の人格無視の営業部長のもとで修業をしなければならないようになった。

「K」課長とはこの時点で離れてしまったが、同じ会社にいる限り関係が無くなることは無く、私が会社を辞めるまでのこれからの10年間、いろんな意味で勉強をさせてもらった。
そして、私の退職の理由の一つは、歳若くして支店次長に登ったこの「K」課長でもあったのである。

この頃の私は人格など無視された一枚の駒のようなものであった。営業マンの教育システムなど無縁の世界だった。だからこの「K」課長には感謝もしているのである。
でも最後は喧嘩別れをしたのである。

営業マンとしてのサラリーマンは難しい。古い体質のゼネコンで自分を貫く生き方をするのは難しい。でも、それを認めてくれる上司もいた。10年間という短期間に私は多くの上司と喧嘩し、多くの上司とともに仕事をした。


私が営業職に身を転じた1980年後半から1990年代にはまだ「年功序列」という言葉が死語とならず生きて残っていました。
一部上場の会社なのにどうしてこんな人たちがいるんだろうと、とても不思議に思うこともありました。そこには代議士となった元経営者が必要な票を集めねばならぬ理由もありましたが、今考えてみれば人を育てる土壌がそこにはあり、その一つが「年功序列」だったのかも知れません。事務時代に私が先輩の倍仕事をすれば、先輩は晩に酒を飲みに連れていってくれ「宮島君、すまんな」と言いながら、会社での過去の苦労話を聞かせてくれました。それは私のその先の人生の肥やしになり、決して組織は一人で動かすことの出来るものじゃないことを教え、考えさせてくれました。
本当に多くの人と出会い、話しし、教えられ、仕事をしました。

会社は営業マンと技術屋だけで動いているのではありません。多くの裏方の職員がいて初めて組織として機能するのです。
次回はそんな皆さんの事をここに記録しておきたいと思います。
多くのいろんな先輩達のおかげで私は一人前の営業マンに成長していきます。
少し寄り道になりますが、そんな話にもお付き合いください。


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