見出し画像

一日の終わりに私が思ったこと

昨晩は寒かった。
休みなのに珍しく酒を飲むこともなく、部屋でパソコンに向かい出してのことだった。
明日は始発に乗る用事がある。出来るだけ早くベッドに入ろうと思ったがなんとなくテレビが気になり、スポーツニュースだけ見ようと思ったのであるが、たまたま合わせたチャンネルで「天使にラブソングを」をやっていた。
テレビではあるが久しぶりに映画に見入ってしまい気がつけば10時となり、あわあわとパソコンにまた向かったのである。

ああ、こんなことが昔はよくあったな。日曜洋画劇場で淀川長治の「さよならさよならさよなら」の声のあとにエンディング曲の「So in love」が流れると、毎回この世の終わりが来たような気持ちになって月曜朝提出の宿題を始めたものであった。しかし、運よく世の終わりは来ることはなく、いつも適当に済ませたノートをカバンに入れて真面目な顔をして登校した中学時代だった。

こんな経験は私だけではないだろうと思う。昨晩はたまたま春分の日の水曜日であったが、日曜日の夜の寝る前の憂鬱な時間が懐かしい。あれはあれで必要な時間だったんじゃないかと思ったりもする。
人間失敗を自覚し、乗り越えてこそ成長がある。でも、あればかりは毎回同じ失敗を繰り返していた。日曜日は朝から遊び惚けて宿題を済ませる時間が無かったとは言い難い。分かっていても繰り返す失敗、これはこれで脳か心の何かを鍛える必要な訓練なのかも知れない。
寒い夜はつまらぬ事を私に思い出させる。そして無為に時間ばかりを経たせる時がある。

一昨日の月曜日は朝まで仕事があり、そのまま新幹線に乗り障害者施設にいる兄の顔を見に行ってきた。変わることのない兄がそこにはいた。気がつけば白い綿の手袋をしている。どうしたのか尋ねると手荒れだと言う。兄は65歳となり、私もこの2,3年ほどで冬だけハンドクリームを持って歩くようになった。互いに歳を取ったなと思いつつ、兄の両手にハンドクリームを塗り終えて、置いていこうと思ったが、持っていると言うからバッグにしまった。考えてみればこれまで兄の手など握ったことも無ければ、クリームを塗ったことも無かった。
最期の頃の母はずっと寝ており、することも無く、ずっと手を握っていたことを思い出した。
なんだか母の手に似ているような気がした。合気道の稽古をする私の手はまだごつごつして、握力も強い。兄や母の手は枯れているような気がした。

春キャベツが美味かった。菊地兄貴の影響で鶏むね肉と味噌炒めを作った。久しぶりに袋入りのインスタントラーメンを買った。とんこつ味に入れたキャベツは美味かった。千切りの生のキャベツを食べるといつものキャベツと違うのがよくわかる。みずみずしさが分かる。どうもキャベツの一つ一つの細胞の壁の厚さが違うような気がする。それがシャキシャキなんじゃないかと思う。

なんだかんだ考えながらパソコンに向かいもう日付が変わりそうなので note の予約投稿を済ませて寝ることにした。
家族のことや仕事で胃袋に穴が開きそうな思いをすることなく平穏な一日を過ごしてベッドに入れるのを幸せだと時々思うようになった。
歳を重ねるのとともに耐性が備わっただけなのかも知れない。
今のように良い意味でのいい加減で過ごすことが出来たならば、もっと楽に生きてきただろうと思う。
でも、これまでのすべては必要なことばかりであって一つとして無駄は無かったと思うし、そう思いたい。
一日二杯の酒を飲み、肴はとくにこだわらず、一日を終えて温かい布団で眠れることを幸せだと思えることを幸せだと思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?