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運転手の宮崎さん

過去にお世話になった方、忘れられない方、忘れてはならない方がいる。
そんな方のうちのお一人、ゼネコン時代の京都営業所で運転手をされていた宮崎さんに三十年も前のこんな季節に大阪御堂筋、大阪ガスビルの裏の美々卯でうどんすきをごちそうになったことがある。

宮崎さんは私がサラリーマン人生を歩み出したゼネコン京都営業所の所長専属の運転手さんだった。
所長はそのゼネコン創設メンバーのうちの一人の子息であった。
京都は建設業界では特殊な地域で、多方面の人種との付き合いが出来なければ責任者は務まらなかった。 
世の表も裏も精通した百戦錬磨の所長だった。
その所長の息子と私はたまたま同期入社だった。

私は所長に可愛がられ、よく社有車の助手席に座らさせられた。
社有車の中での私の会話や所作を見て、宮崎さんは所長のいない時に社会人のいろはを丁寧に教えてくれた。
私の父とほとんど変わらない年齢だったと思う。

当時はまだ年功序列が当り前、でもじゅうぶん会社は儲かり、世の中は潤沢であった。
でもそんななか、女性社員と宮崎さんたちとには一般男性社員と格差があった。
宮崎さんたち運転手さんたちのほとんどは、日本のインフラ整備時代にダムやトンネル、大型工事の独立作業所での現地採用の方が多かった。そこでの仕事が終わった後に支店の運転手として配属替えされるのである。
現地採用ということで入社したばかりの私たちより社内の資格は下であった。

所長たちの夜遅くまでの会議や酒席に待たされ、朝はいつも一番に出社されて車の点検を怠らない、日祝のゴルフにも付き合わなければならない。
それこそ24時間365日、嫌な顔一つせずに「はい、わかりました」と行動される方であった。

そして、いつも奥さんの作る愛妻弁当を持参されていた。
ある日事務所に上がってきた宮崎さんに小声で「宮島君、悪いが俺の弁当を食べてくれないか」と声をかけてきた。急に予定が変わるのは常のことで弁当に手を付けることが出来ず持ち帰ることもあったそうである。
それ以来こんなことが何度かあった。
食事の用意の無い社員寮で生活していたその頃は三食外食であった。宮崎さんの奥さんの作った弁当は本当に美味しく、私の身体の隅々まで栄養と奥さんのお気持ちが染み渡るようであった。
そして、いつも弁当箱を洗って夕方お礼と共にお返しした。

そんな宮崎さんは私の会社での将来を案じてくれたのである。
営業所の所長が代わり、現場に出ていた私は上司と衝突し、営業へ転身することを決めた。
当時の大阪支店営業部のメンバーは癖の強い方々ばかり、若い営業マンは極端に少なかった。
24時間365日働く所長と行動を共にしていた宮崎さんは若い私にそんな営業の仕事が務まるのか心配だったに違いない。
それは親心だったのだろう。

営業部に移り、しばらくして連絡が来た。
美々卯への誘いだったのである。
うどんすきので有名な老舗の美々卯では、宮崎さんは多くの人を送り迎えをしていた。
「一度、ゆっくりうどんすきを食べたくってなぁ」って話を聞きながら、熱燗をいただいたのを憶えている。
会話の内容など憶えていない。
でも身体も心も熱くなる時間だったことは忘れることが出来ない。
宮崎さんは私のようにたくさんの酒を飲むことは無い。次の日に持ち越す飲み方は運転のプロとしてご法度だからだ。
美味しいうどんすきをご馳走になり、御堂筋で別れ宮崎さんは北、私は南に向いて歩いた。

あれから三十年以上が過ぎ、何度か大阪支店でお会いすることはあった。
会社を辞めてからも何度か連絡は取った。
しかし、今は無い。
本当に不義理な自分に恥じ入るばかりである。
たぶんもうお会いすることはないであろう、お会いできないのかも知れない。
でも、教えていただいたこと、身体と心を熱くしていただいたことはいつまでも忘れてはならないと思い、伝えていかなければならないことと思っている。

あぁ、気がつけばそんな歳になった、と思っている。

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