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JR西日本 大阪環状線天王寺駅 その1

『天王寺駅』、この駅が大阪環状線の中でたぶん私の思いが一番強く、記憶の多い駅だと思う。この天王寺駅に初めて降り立ったのは35年近く前だと思う。大学を卒業して大阪支店へ配属された頃、大学合気道部の先輩が大坂駅前ビルで働いていた。おじさんの経営する健康器具の会社で働いていたのである。ちょうどその頃、JR東西線建設、新駅『北新地駅』の設置が大阪駅前ビルの地下に決定発表となり、その真上のビルの区分所有者である先輩の会社の資産価値が上がると聞いたのを記憶している。

ちょうど健康ブームもにぎやかだった頃だったと思う。先輩の会社は景気が良かったと思う。いつも忙しい先輩に誘われたのである「一度、天王寺に飲みに行くからついてこい」と。普段から飲みの誘いを断ったことはなかったのだが、合気道部の先輩の誘いを断れないのは社会人になっても変わらなかった。「押忍!」の一言で生まれて初めての天王寺に行ったのである。

今ほどきれいな町ではなかった。阿倍野筋を挟んで西側は今でこそ再開発がなされ大きな商業施設と集合住宅で整然とした街並みとなっているが、当時はまだ戦後の顔を残す昭和そのものの混沌としたエリアであり、歩けばそのまま『あいりん地区』や大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた『飛田新地』に続いた。

だからである。大阪市が再開発を行ったのは。私がいたゼネコンでも大阪市発注のビルを建設した。ゼネコンを辞めて移った設計事務所では再開発区域内の設計を行った。

自治体が行う再開発はそんな感じで長い時間がかかって施行されていく。そこに住む多くの人たちの権利や欲や人生やらを整理しながら進まねばならない。民主主義の日本では時間が掛かって然りなのである。

時間が掛かる話ならば、天王寺駅から谷町筋に北に進むと四天王寺がある。ご存じのように聖徳太子が建立した寺である。
そして、その建立のために百済から連れて来られた宮大工の一人が創業した『金剛組』が四天王寺のすぐ西側にある。ゼネコン時代に金剛組とJVで建設工事をした。兵庫県川西市に女子大の資料館を作ったのだがその本格的な城郭様式を取り入れた施工に金剛組の技術が必要だったのである。

その金剛組に契約書を持って行った際に社長と話をした。
とても印象に残っているのは「宮島さん、この会社には営業は要らないんですよ」といった言葉である。日本最古の会社と言われる金剛組の創業は西暦578年、それから1400年以上の間に日本中に寺社仏閣を建てている。毎年どこかの建て替えがあり、その時には必ず電話がくる。だから電話番がいればいいと。そして寺、神社の資金は潤沢で赤字も、取りっぱぐれも無いと言っていた。

そんな会社が近年、他ゼネコンの子会社となってしまった。不思議に思っていたが新聞を読んでいて腑に落ちた。マンションブームに乗ろうとして失敗したのであった。
鉄筋コンクリートの工事などやったことのない純日本建築ばかりの金剛組には新しい会社を一つ興すのと同じだっただろう。営業だってしなければならなかっただろう。いっそのこと別会社であれば切り離すだけで良かったのかも知れない。

名前こそは残ったが、永い歴史は一度リセットされている。
本業を全うする大切さを物語っていると思う。
私がいたゼネコンも銀行の誘いにのって海外での巨額不動産事業に手を出して失敗した。そのために事業規模を縮小せざるを得なくなり、多くの仲間が会社を後にした。

この天王寺では酒も飲んだが仕事もした。考える事も悩むことも多かった。
長くなる、今回は『以前やった仕事編』として終わらせたい。


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