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顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。
母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。
父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。
父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。

長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。
それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。
そしてそれが無ければ人はたいそう生きにくいに違いない。
数えれば父が他界し10年が過ぎる、10年ひと昔、父の記憶や思いは薄れながら昇華するように思う。

けし坊主ってわかりますか?
けしの花の実、丸く膨らみその中に種子が残ります。
振ればマラカスのようにシャカシャカと音がします。
若いけし坊主の顔にナイフで傷を入れれば白い樹液が白い血のようににじみ出てきます。
それが阿片のもとです。
なぜか父のイランの土産に乾燥したけし坊主があり、私の引き出しに長くしまわれていました。

亡き父の思い出です。

イランで高速道路を作っていた頃である。
延々と続く沙漠に高速道路の建設である。
父はいつも切り込み隊長、原野に宿舎を設営して建設工事に着手する以前の準備から竣工まで現場に張り付いていた。
その時は日本人のコックが来るまで父が飯を炊き、昼に部下が現場で食べる弁当を作り朝持たせていたと聞いた。
弁当と水を持たされた若い兵隊たちは数キロ毎に建てられ電柱の電装をしていた。
父は車に積んだ兵隊たちを朝一人ずつ下ろし、早い夕方に拾い帰ったと言う。
灼熱の炎天のもと、苛酷な作業であったに違いない。
その中で一人の若い職員を死亡させている。
夕方迎えに行くと電柱の下で倒れて冷たくなっていたそうだ。
晩年まで口を開くことのなかった父のサラリーマン人生での痛恨の極みであったに違いない。
今では通用しない企業戦士たちの話である。

イランでの仕事は心身ともに辛かったに違いない。
あの父がげっそり痩せて帰ってきた。
その時の土産の中にあったのがけし坊主だった。
顔に斜めのキズが数本入ったけし坊主だった。
NHKの番組で観たゴールデントライアングルで阿片の汁を顔の刻み口から垂らしてたけし坊主だった。
カサカサと音のする乾いた実の中にはケシ粒が入っていた。
日本の日常から遠く離れた異国の地で厳しい生活を強いられた父にとっては、日本で食べたケシ饅頭が懐かしく手に入れたと言っていたが、私にはその存在ばかりでなくカサカサという小型マラカスから出てくる音も聞いてはいけない音、誰かに聞かれればそれで私の人生が変わってしまう音のような気がした。
けし坊主はいつまでも私の机の引き出しに隠していた。
二十歳で家を出た。
その後のけし坊主の行方を私は知らない。
間違い無いのはその故郷、乾き切った台地に帰ることは無かったであろうことだ。
雲一つない真っ青な空、灼熱の太陽のもとその美しさを誇り立っていたけしの花。
そしてけし坊主となり、その顔を切り刻まれ、血を絞り取られその骸は異国の地へ持ち去られた。
私以外彼の存在を思い出す者はいないであろう。
儚いけし坊主の一生である。

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