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うどんを食って考える

仕事をする。メシを食う。酒を飲む。合気道の稽古をする。
不思議ではあるが最近時間の使い方を時々意識する時がある。これが歳をとったということなのかと思ったりもする。ほんの時々意識するのである。
時間を無尽蔵と考えていたわけじゃないのだが、若い頃には残された時間を意識することはなかった。たぶんほかの連中も同じなんじゃないだろうか。
この歳になって時々時間を意識しだした私は、だから何かに背中を押されるわけではない。何も変わっていないのである。変わったのは意識だけである。何かをやり残しているという気持ちが私の意識の深層にいつも潜んでいる。そしてこんなことは誰もが持ち続ける意識なんじゃないかとも思う。

生きるために仕事はするが、もう命をかけるような営業はしない。
メシは美味いものが少しあればいい、もう腹いっぱい食うことはない。
酒は機会があれば飲むが毎日浴びるほど飲んでいた日々がウソのようである。
合気道はひたすら伝えることに徹する。

そして平穏な日々が続くことを願うのである。

ならば私の意識の深層にあるやり残しは何なのであろうか。
これは焦りや責任感に似たものかもしれない。
現役時代にこれが突出してしまえば強いストレスになってノイローゼにもなってしまうのであろう。
今はそれをコントロールできるようになったといったところかも知れない。
達成することの無い「やり残し感」、良い意味での軽いストレスであろう。
自分で自分に軽いストレスを与える。生きるための軽いストレスを与える。
そして、生きていけるのであろう。

そんなことを豊橋のうどん屋で考えていた。
40年以上も前に食べた勢川の煮かけうどんは何も変わることはなかった。

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