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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。
着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。
見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。

どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反対でどこでももめることが多かった。特にこの老人ホームは「高級」な施設で、また違った見地からの反対があるのかとも思われたが、内実はそうでもなさそうであった。


私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)プロローグ その2

実は、この町内に「S」という京都営業所の事務課長の自宅があった。「S」という事務課長は小説やドラマに出てくる典型的な上ばかりを見ている、手もみゴマすり男だったのである。
私は久々の営業所にやって来た新入社員であることと、営業所長の息子とたまたま同期入社であることがあって、営業所長にそれこそ息子のように可愛がられ、事務課長は所長に気に入られるために、これぞとばかりに私を可愛がってくれた。土曜日がまだ半ドンだったその頃、週に三日は近所の居酒屋で酒を飲み、そのままタクシーで祇園のクラブまで乗り付けた。そんな翌朝はお抱えの個人タクシーで営業所次長と出社して来た。すべては会社の金と、協力業者にツケ回しをしていたのである。

公金を預かる責任者の事務課長が、好き勝手に会社の金庫から金を持ち出し適当な領収書で使っていたのである。
そして、生意気だとは分かっていたが私は「間違っているんじゃないか」と言ったのである。実はそんなことよりも、営業所の経理担当の定年に近い女性を難癖をつけてイジメているのを見ているのが嫌だったのである。老いたお母さんと二人きりで生活をしていると聞いており、黙って耐えるその女性が陰で泣く姿を見たことがあった。
そのこともついでに言ったのである。

その先やって来る仕打ちは想像ついていたからどうでもよかった。営業所までやって来た近所のシャブ中のチンピラをつまみ出して公園の砂場に放り投げたのを見ていて私のことが怖かったようであった。そして、所長に言いつけられることの方が怖かったのであろう。
私の非難に何の反応も無かった。
翌月からいきなり現場に出された。京都南部の某電気メーカーの研修所建設工事の事務と北部である舞鶴の事務所ビル新築工事の担当となった。現場の大小は関係なく工種の多い建築現場には多くの業者が出入りし、毎月同じ時期に山のような請求書が私の手元に集まり、一度にその処理と毎月の工事出来高の査定を所長と行い、竣工時の利益予想を行う精算調書を作らなければならず3日間の完全徹夜が毎月続いた。京都の南北は遠く離れていた。

この事務課長が町内会の悪の役員とこっそり話をしていたようであった。
表に出ないようにして金にしてこっそり分け前でももらう話をしていたのだろう。
でもそんな筋書きが通用する「T」所長ではなかった。高級有料老人ホームの担当現場所長が「もうどうにもなりません」と泣きついてきて腰を上げた。
たぶん、ずっと考えていたに違いない「わしに任せておけ」と、大阪に向けて社有車を走らせた。北新地での会談は長引き帰りは翌日だったと運転手さんに教えてもらった。

この老人ホームはJV(建設会社2社以上での共同企業体)で建設にあたる予定で大阪の大手ゼネコンがその相手だった。
民間のJVは発注者が決める。営業の優劣であったり発注者の好みで建設業者は決まる。そのJVの持ち分比率も発注者が決めたりする。
「T」所長の解決策は誰もが想像出来なかった。
この建設現場の一つ山を越えたところで大規模な公共住宅地と某大学キャンパスの造成工事が行われていた。そこまでの取付け道路を作り、民間地を通っての土砂の搬出は止めてそこで処分させてもらうことにしたのである。JVの相手のゼネコンがそこの造成をやっており、そのゼネコンの業者間の調整役の役員と「T」所長は懇意であり、その役員は関西の調整担当のトップでもあった。
200ヘクタール(200万㎡):東京ディズニーランド4個分という広大な面積にばらまけば誤差範囲の土砂の量である。たぶん話はすぐにつき、そのあといつものように北新地で会合の続きを行なったのであろう。

「T」所長に「宮島君、最後は人間付き合いだよ」とよく言われた。こんな解決は建設の仕事をよく理解し、業界を知り、人の持たない発想と度胸が無ければできない。
でも、「T」所長は非常に優しい人だったのである。
所長は64歳で他界された。奥様曰くは「もう身体はボロボロ」だったそうである。60歳で会社は辞め、京都北部のある町の町長の所有地を借りて野菜作りをしながら、現場から持ってこさせた仮設ハウス内で絵を描き、陶芸をしていた。「一度寄れ」と言われ仕事の途中に寄り、たくさんの野菜を頂いて帰った。優しい親父の顔になっていた。「また来いよ」と言われたが、幸せそうな所長の顔を見たのはその一度きりだった。

「T」という所長の話はこれで終わるが、実はまだまだ話は尽きない、そして今も続いているのである。
所長は足を洗わせたヤクザの親分を私のいたゼネコンの直庸の土木業者として育て面倒をみた。そのもと親分は所長の命日に必ず大きな花束をご自宅に届け、霊前に手を合わせた。それを死ぬまで続けていた。
私は所長の言いつけに従って指を落とし足を洗ったもと親分に、NPOの理事長を紹介してもらったのである。

今でも近くに居て笑って私のやることを見ているような気がする。
そんな所長のやって来たことのマネも、もちろん乗り越えることも出来はしないが、この時期に私が身にしみて感じた所長の優しさや仕事に対する厳しさ、発想の大切さをいつまでも心に残し、できれば伝えていきたいと思っている。形は変わるであろうがいつまでも残して行きたいと思っている。


「S」という事務課長の話は中途半端ですがいったんここで終わります。
これから10年ほど後に営業所を追い出されて大阪支店営業部にやって来ます。私の斜め向かいぐらいの席に座りました。目ざとく大派閥のグループの腰巾着となって、独立愚連隊部長の配下にいた私と敵対する時期がやって来ます。とことんまっとうには生きることの出来ない人でした。そんな生き方で毎日が楽しいのか私には不思議でした。でもそんなことを確かめようもなく「S」課長の訃報は「S」課長の定年後まもなく私のもとに風とともにやって来ました。

私の知る当時のゼネコン営業マンの日常のほんの一部です。
私は出先の営業事務所で多くの先輩方に鍛えられ、現場でゼネコンの何たるかを勉強し、徐々に営業マンを意識しだしました。
そして、この先に続いていくのです。
この後の長い人生の本当のスタートを切ったのです

ここまでを「私の人生の軌跡」ゼネコン営業マン編のプロローグとさせていただきます。


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