見出し画像

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』

もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。
建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作り上げていくのである。
「まずは土地ありき」と思われがちであるが、そうばかりではないのである。
どのゼネコンも官民の担当を分けていた。飲み食いが当り前の民間営業と官庁営業を一緒にしてしまうと贈収賄にもつながりやすく、第三者の目から誤解を受ける可能性もある。だから分けられていた。しかし、きちんと分けれるのは本社や支店の営業部であった。私が一時期いた営業所ではどちらもやらなければならなかった。人がいなかったからである。だから私は通常のゼネコンの営業マンがしない経験をし、いまだに続く付き合いがある。

放置竹林整備のNPO竹ネットの理事長もその一人である。私より10歳も年上の方である。現職当時は、私が親しく会話が出来るような関係ではなかったが長く深い付き合いがある。
全ては金の関係しないところにある人間で作り上げられる関係なのである。


この先しばらくこの場をお借りして私のやって来たゼネコン営業マン人生をまとめてみようと思います。
古き良き時代と、一笑されるかも知れませんが、真理は今も昔も変わることはないと思っています。私の生きて来た道をここで再度見直し集大成してみます。

「その話読んだよ」ってのも含まれるかも知れませんが、これまで以上に精度を上げたものを用意しますので是非お付き合い頂きたいと思います。



『たけのこの思い出』贈答の巻

ゼネコンの民間営業の方法には定石は無い。
営業マンの考え方で独自のやり方があった。
そんな中でも、季節毎の贈答は会社で決められた恒例行事のようなものでもあり、我々営業マンにとっては「また来たか」と季節の到来を告げてくれる、春の鶯、夏の蝉のようなものだったのである。

そして送る品物は、春は筍、夏は鰻、秋は松茸、冬は蟹、そんな時代であった。

これからの時期、解禁されたばかりの天然鮎を長良川まで買いに行かされて北摂住の大学の理事長宅まで持っていったことがある。
当時岐阜に大学合気道部の同期がいた。現在は東京本社の生保の副社長をしている。この男に現在NPO竹ネットの竹製品を買ってもらっている。その男に岐阜羽島駅まで迎えに来てもらい、早い午前中に予約していた老舗ホテルで鮎を受け取り、運転手代わりだった同期にコーヒーを奢ることもなく、新幹線でトンボ帰りで北摂の自宅まで届け、昼過ぎには会社に戻っていた。

そんなことが当り前で本当に多くの物を多くの方々のお宅へ運んだ。ご自宅へ贈答品を持参しても必ず受け取ってもらえる得意先ばかりではない。旬を新鮮なうちにと思っても、なかには拒否もあれば不在もある。これを上手にやるのも営業深度の一つである。私は一度も受け取りを拒否されることは無かった。代々断り続けられたと聞いていた顧客の奥様に「これを会社に持って帰るわけには参りません。帰ったら私はクビです」と平気で嘘をついて受け取ってもらったこともある。まだまだ新米の頃だった。一日借り切ったタクシーにはたくさんの贈答品があって、その日のうちに配り切らなければならなかった。その頃はそればかりが頭にあるまだまだ真面目な営業マンだった頃である。

そのうち奥さんと仲良くなって前日に電話を入れた。「そろそろと思ってたのよ。12時前に来てちょうだい」とオーダーをくれる客も出て来た。行けば昼メシを用意してくれていて、ご馳走になりながら私と同年代の息子さんの人生相談を受けたこともある。
営業マンの仕事は多岐に渡り、なんでもやった。
(このこともどこかでまとめようと思う)

京都三条寺町にに季節の京野菜と贈答品を扱う「とり市」という老舗がある。そこでこの時期に筍を会社で大量に注文して配りまわっていた。大阪に個人営業の不動産屋ではあるものの、大きな企業のフィクサーのような方がいた。そこでも奥さんにコーヒーをご馳走になりながらご主人の破天荒な人生をお聞きしたことがある。記憶によく残っているのが、若い頃に「ちょっと煙草を買ってくる」と言い残して一年間帰ってこなかったことがあった、というのである。
奥さんもまあ、よくできたお方で「そのうち帰ってくるだろう」と思っていた。何をしていたかも聞くことなく「ただいま」「あら、おかえり」で今まで続いているというのである。

なんと素晴らしい奥さんで、なんと羨ましい人生を送っている社長なんだと思ったものである。その晩、会社の帰りに寄るように言われ、ご自宅で社長とともに奥さんの手料理の筍を腹いっぱいご馳走になった。もちろん酒もだ。その時社長に「どこに行ってたんですか」と聞いてみたかったが、たぶん奥さんにも想像はついていることであって、私が家庭の不和をこしらえて、また1年間の失踪になったら責任の取りようもなく止めたのである。

でもその時の筍は美味かった。京都西山大原野の「白たけのこ」であった。
そして今、白たけのこをまた腹いっぱい食べている。NPOの事務所の家主である私が「お母さん」と呼んでるその方の筍畑の白たけのこである。京都で有名な筍専門料亭の畑の隣、地元では畑と呼ぶ竹林である。たぶん、味はそれと変わらないだろうと思いながら食べ過ぎて腹を壊した。
あの頃はどれだけ食べて飲んでも腹を壊すことは無かったのに、当時を思い出し自分の歳を感じる春の夜なのであった。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?