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海の日、そして夏のある日

海の日、朝一番に外へ出る。すでに暑く空は青かった。こんな朝を子どもの頃に迎えた記憶がある。
なんだかある日から空気が違う。梅雨の蒸れた空気を押しやって暑いが「カーン!」と乾いた空気がそこにいた。

母に「行くよ。」と言い残し、ひたすら南に向かって自転車を漕いだ。愛知県渥美半島の太平洋岸にいつも一人で向かった。豊橋市内を走り抜け、旧陸軍の高師原演習場だった高師緑地の脇を抜けて豊橋鉄道の踏切を横断する。梅田川を渡った辺りから建物らしい建物は無くなる。冬のそこいらは一面がキャベツ畑に変わる。地平線、その向こうは太平洋、とにかく見渡す限り緑のキャベツ畑になる。その当時夏の間、何を畑で栽培していたのかどうしても思い出せない。とにかく暑く、気を失うほどの炎天下をひたすら一人で海岸に向かった。

背の低い松林の坂を下れば海風が潮の匂いを運んでくる。波の音がだんだんはっきり聞こえてくる。砂浜から離れたところに自転車を置きTシャツをカゴに突っ込み、ゴムサンダルを脱ぎ捨てて太平洋の白い波に向かった。途中の白い砂浜は熱く焼け、人間が近づけないようにしているといつも思ったものである。

昼間の暑い時間に当時は誰もいなかった。朝夕の涼しい時間に初老の夫婦や幸せそうな家族連れが大きな犬を連れて散歩している、そんな風景の似合う浜辺であった。
でも、そんな時間もよかったが、真夏にはやっぱり真夏の時間帯が私には嬉しかった。焼け焦げた真っ白な砂浜は修行場のように熱い、飛ぶように走って海に向かうのであった。いきなり入る海は冷たい。徐々に深くなる砂浜はいきなり深くなっていくラインがある。波は強く遊泳禁止の浜辺である。潜れば波の音は消えて海の声が聞こえた。波が強くて泳ぎにくいが大きな波に乗って浜辺まで戻れるのが面白かった。今ではサーファー達の集まる浜となっている。

海は孤独を楽しみ私は孤独に楽しんだ。
私には何の目的も無く海につかり海と同化して海の向こうに何も無いのを確かめるのだった。
焼け付いたテトラポットの影で休み、また自転車を漕いで帰った。
そんななんでもない日常の記憶が私の身体のどこかに残っているのである。

兄がいる田原市の施設に向かう。当時の私の日常を横目で眺めながら新幹線を降り、豊橋鉄道に乗り換える。多くの風景は変わり、多くの風景は変わることは無い。そして、私の心象は決して変わらず兄か私のどちらかが先にこの世を去るまで残るのであろう。



帰りに豊橋駅前に立ち飲み屋を発見! 豊橋にも昼飲み族がいましたよ。 いろんなスタイルの生活を送る人がいますから。飲み屋も多様性の時代です。
そして、新大阪止まりの「こだま」に乗り込む。 愛知三河の地酒「蓬莱泉」と昭和の豊橋人のソウルフード、「村田のたこ焼き」

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