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さて、今年も始まった

正月を迎え、年は新しく変わった。深い感慨も無く日付が変わったように思う。
年賀状を書かなくなって、もうしばらく経つのに届く年賀状に申し訳なさを感じ何本か電話を入れ「まだ生きている」と報告する。
同じように何本か「お元気ですか」と電話が来た。メールもラインも来た。私よりずいぶん年上の先輩方からである。近況をお聞きし、お礼を述べて電話を切った。メールもラインも返事をした。
80を過ぎてラインを時々くれる京都でずいぶん世話になった不動産屋の元専務には大事な息子がいた。親父と同じ業界に入ってしまい、向かぬ仕事に私が相談相手になっていた。生きていれば50過ぎである。私の知らぬ間に親不孝をしでかし、元専務から涙の電話をもらった時には言葉が無かった。生きていりゃあなんとかなるもんだが、あの世に行ってしまってはどうしようもなかった。特殊な蘭を趣味で栽培し、変わったメダカを育てている。時々写真をラインで送ってくれる。今年こそはお好きな甘い物をぶら下げて元気な顔を見せに行ってこようと思う。

昼から難波で息子と会った。大阪市は御堂筋の南端ともなる難波高島屋前の交差点を封鎖して歩行者広場に変えていた。どんなふうになっているのか見てみたかった。交差点も道路も無くなり、風景は一変していた。新型コロナは5類に移行し、万博を控え、市はインバウンドに備えていい所を見せたかったのだろうが、昔のあの大阪の交差点らしい交差点をそのまま見せた方が良かったのではないかと思う。難波の場末の狭い狭い、こんな寿司屋にと思うような店に日本語を話せないツーリストが入って来てたまげた。でもその店のとうてい英語、日本語も関西弁しか話せない親父が客として迎え入れて接客をしていてぶったまげた。こんな昔の大阪らしさの残った店をインターネットで探してやって来る海外の御客人もいるってことである。考えてみれば私も海外に行けば同じことを考える。人間みな同じなんだな。新しい、きれいばかりじゃダメなんだなと思う。そして商売のネタはそんなところにありそうに思った。

そんなことを考えながら歩くからか、ずいぶん老舗の飲食店が減っていたように思えた。東京資本のチェーンオペレーションの飲食店もこの難波にずいぶん流れ込んできているんじゃないかと思ったりした。

「Cuore」? 見かけぬ看板、私の知らぬ飲み屋があると、よくよく見れば2階の矯正歯科だった。こんなごっちゃが大阪らしいのである。大阪ならば一人くらい1階で餃子を食って2階に向かう強者がいるんじゃないかと思いながら息子と出会い飲み屋に入った。
互いに生存確認し、近況を聞き杯を重ねた。考えれば親父と飲む機会は少なかった。なんとなく私が避けていたのもあれば、私が時間を作れるようになった頃には親父の身体は酒を受け付けてはならなくなっていた。思えば親父には孝行らしいことは何も出来なかったように思った。そう考えれば孝行息子である。最近たまにではあるが私の替わりに飲み代を払ってくれる。そんな時に「ここまで育ててきて良かった」と思う。

息子と別れ、帰る途中に昨日初詣に行った氏神様に寄る。お札を返し忘れていたのである。昨日のあのごった返しは何だったんだろうと思えるほどの静けさであった。人は数えるほどしかおらず、普段は無い照明に照らし出された社殿は静謐さを感じさせるほどであった。
来年からは元旦は外して初詣に来ようと思った。氏神様もあのように多くの参拝客の願いを聞き入れることは出来ないだろう。きっと二日目、三日目のほうがご利益があるに違いないと思い自宅に向かったのであった。

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