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JR西日本 大阪環状線 芦原橋駅から大正駅

芦原橋駅
ずっと考えていました。この芦原橋駅にもじつはいろんな思い出があります。

でも喧嘩別れした思い出をなかなか文章には出来ませんでした。
若気の至りでした。今は反省しています。私も大人になりました。ここでははっきり書きませんがいろんなことがありました。

でも、断っておきますね。相手は女性じゃないですよ。男ですよ。ほぼほぼ少ない数少ない大阪で喧嘩別れした男がこの芦原橋の出身でした。遅くまで酒を飲み、JRは動かずタクシーでここの市営住宅まで送ったことが何度かありました。

芦原橋、駅前に太鼓屋がある、そんな街でした。
私には人の生まれや歴史における偶然を色を付けて見たことも考えたこともありません。知らねば知らぬまま過ぎ去って全く不具合のないことかも知れません。

その後私は京都に行き、たくさん勉強させてもらう機会がありました。
「宮島さん、ネルソン・マンデラに会ってきたよ」と笑顔で言う若者が知り合いにいます。いわば日本の人権代表として親父と一緒に南アまで行って来た若者です。

ここには書くことの出来ない裏や表が世にはあります。人の作ってきた歴史、そんなことがあって当然なのです。
芦原橋駅はそんなぼんやりしか説明できない思い出です。


大正駅
私の好きな町です。
駅前の立ち飲み屋、椅子のある居酒屋、個性的な店が多いです。そして、沖縄料理店の多い町です。

昭和初期に大阪湾の埋め立て、大阪港の築港事業と共に製鉄所や造船所が建造され、そこでの働き手として沖縄から多くの移住者がいたそうです。
熱く、つらい肉体労働を担っていたのです。

有名な沖縄料理店が何軒かあり、どれにもいきました。料理は美味く、舞台があり三線を弾いて沖縄の雰囲気を醸し出してはくれますが、私の興味は酒と料理です。泡盛は好きです。でも私の行った有名店はどの店も料理の値段が同じでした。カルテル臭さを感じ、公正取引委員会の立ち入りの必要性を感じました。

設計事務所時代にずっと世話になったトラックメーカーの基地がありました。
用途地域で見ると住宅を建てれない工業専用地域の多い大正区です。トラックメーカーが拠点を置くにはもってこいの地域だったのです。この基地までいつも歩きました。大正駅から直線距離で2㎞ほど、私はいつも遠回りして歩きました。駅にほど近い商店街をくぐり抜けた先をしばらく歩くと次の商店街、そしてまた次の商店街と三つの商店街を抜けるとすぐでした。

打ち合わせはいつも私の我がままを通して夕方でした。そして、帰りに近所のメシ屋で酒を飲んで帰りました。沖縄の方の経営、お客さんは皆沖縄の方ばかり、私には会話の内容は全くわかりませんでした。でも、そこではわたしが知らない沖縄を感じることが出来、泡盛が私の喉を焼いてくれました。
有名店より安く、お店の心を感じる料理と泡盛でした。

ここのトラックメーカーの方には本当によくしてもらいました。
退職する際には埼玉の本社まで挨拶に行きました。ゼネラルマネージャーは私の阿倍野の店まで何度も足を運んでくれました。
今思えば一度あの大衆食堂で泡盛を一緒に飲みたかったです。

大正でも仕事と、酒の思い出しかないですね。
仕方ないですね、考えればどこにいても仕事と酒を飲むことしかしていませんでしたから。
これが私の大正駅の思い出です。

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