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「夢のつづき」のつづき

もともと夢を憶えていないほうだから、休みの昨日、昼寝をしていて見た夢は初夢だったのであろうか。
寝汗をかいて目が覚めた。

私は列車のボックスシートに独り座りボンヤリ外を眺めていた。
海岸線を走る列車の右手には月の光を反射する白銀の山々がそそり立ち月の明かりばかりか私たちのまわりに渦巻く嘘も生き辛さも跳ね返すかのような白い輝きを放っていた。
左手には漆黒の海が横たわり唸り声をあげてうねる波は白い輝きが跳ね返すすべてを吸い込むようであった。

そして私には分かった。
怖い、痛い、辛い、叫び声や女や男の泣き声が黒い海に飲み込まれていくのが。
でもそれが聞こえるのは私だけようであった。
まばらに座るほかの乗客たちは皆まどろみ、幸せそうに寝息を立てる者さえいた。
効きすぎる暖房と薄暗い車内灯が私もまどろみに誘うが私は寝てはいけなかった。

そして、違う列車に乗っていったはずの代表が車両のドアを開け入って来た。
私をめがけて向かってくる。
「いいんだ、それでいいんだ」と目で言った代表は私に何かを言おうと口を開いた。
私は身動きができず成り行きに身を任せるしかなかった。

そこで私は目が覚めたのです。


元旦から被災地の現状をテレビで目の当たりにして1995年の阪神淡路大震災を思い出していました。当時はまだゼネコンの元気の良い若い営業マンでした。発生翌日の1月18日に上司から得意先に物資を届けてこい、と言われました。現地に行く方法は自分で考えなければなりません。大阪駅前ビルの好日山荘でフレームザックを買い、荷を括り付け作業服に着替えて自宅に帰ることは許されず、三田経由で山側から神戸市内に入りました。それから1か月、風呂に入ることもなく着替えることもなく毎日神戸の端から端までバイクで走り回りました。阪神高速は倒壊し、三宮で庁舎が潰れているのを目にし、ビルが根元から倒れているのを見た時にはゼネコンの職員である私は信じることができず夢の中にいるように錯覚しました。そして今回の被災状況のなかにも同じようなビルがあり被害者が出てしまったのを知り、あの時、あの光景がフラシュバックのように甦りました。志賀町にゼネコン時代の先輩がいます。入社後、生まれて初めての地の京都営業所に配属されて営業所の上にあった独身寮の向かいの部屋にいた優秀な土木屋の先輩です。いまだに毎年一方的に年賀状を送ってくれる心優しい先輩です。気になり恐る恐る電話すると「家族ともども元気だ、ありがとう」と、胸をなでおろしました。そんなことがあったから見た夢だろうと思うのですが、ここに出てくるなぜか代表とわかる男が気になります。夢のことはよく分かりません。あえて深く考えないほうがいいのでしょう。それにこの夢はまだ続きそうな気がしますから。
家族を失い、怪我を負い、今の生活にままならぬ状況でも何か楽しいことを見つけて欲しいです。私は三宮の事務所の所長室に寝泊まりしながら、後輩と毎晩酒を飲んでましたよ。震災三日目には経理課長から「とりあえず」と言って仮払いしてもらった20万円をポケットに入れて後輩に声をかけて開いてる飲み屋を探しましたよ。そうしたらありました。「乾き物しかないけどいいですか」とのご主人に「全然!」と答え飲んで帰りました。
人間は強い生き物です。ただ、一人は良くないです。悪いことを考えがちになってしまいます。複数人で楽しいことを考えてください。どん底を経験した先には明るい未来が必ず待っていると。どん底より底は無いのです。あとはひたすら這いずり上がるばかりです。どんな人生にも楽しいことは見い出せることを理解して今を生きて欲しいと思います。


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