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初心に帰る日

1990年代に入っていた。
もうバブルは終わりかけていた。
以前とは違う数年来の異常な暑さを産業革命から始まった私たち人間の化石燃料使用による代償であると言われはじめた時期だったかもしれない。
その頃、私は毎日近鉄電車を鶴橋で乗り換えていた。
朝から鶴橋駅には蒸れた空気とこびり付いてもう剥がすことのできない肉を焼いた夜のにおいがへばりついていた。
二日酔いの頭を抱え一度改札を出てガード下の立ち食い蕎麦屋で酔いを覚そうと熱いうどんをすすっていつも後悔した。
玉のように流れる汗は昨夜の酒をほんの少しだけ私の毛穴から押し出すものの、何も変わらぬ同じ日常がその日も待つだけであったのである。

自分の夢を忘れてしまい、夢を追った頃があったこともすっかり忘れてしまっていたのである。
そのことをこの歳になっても鶴橋の改札をくぐる度に思い出す。
決して長くはない生涯で出来ることは限られる。
誰もが同じ『寿命』という土俵に上がって戦うのである。
自分の意志であろうとなかろうと、この世に生まれて来たからには生き続けなければならないのである。

多くのしがらみを振り切ってやっと自分が見えた時には体力は落ち気力は底に着きかけている。
最後の蝋燭の火が見えて来ようとも走り続けなければならないと自分に鞭を打ち続けるがそれにも限界があるのかも知れない。

「初心に帰る」

まっさらな気持ちの初心に帰るのではなく、あの時の鶴橋の改札をくぐったあの暑い日を思い出すとなんだか怠惰な日常に浸っていたあの頃に戻ることが出来る。
不思議ではあるがそんな記憶から活力が湧くのである。
決して順調満帆でなかった人生をそれでよかったと言ってくれる誰かがその先にいてくれるような気もする。
若き日の記憶、若き日に何かの気持ちが生まれ出た記憶を思い起こせる場所があることを嬉しく思うのである。
その嬉しさが私の生きる活力になっているのかも知れない。
そう思い私はまだしばらく続く自分の人生を歩むのである。


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