見出し画像

蒸し暑い夏の日の出来事

静かな夜だった。
異様な暑さはひと段落したものの、信じられないような湿度の高さに濡れたフローリングは私の足を取り、思わず事故を起こしてしまうところであった。
室内で湿度が95%などを超すことはめったにない。
理由の一番はもちろん気象条件であるが、鉄筋コンクリート造の気密性の高い建物の室内であって換気が悪いと湿度が上昇し続けることがある。
だから、雨の日でも実は換気は必要なのである。
高湿度の室内はカビやダニのはびこる環境を作り上げるばかりか人間を病気にする。
精神をも病ませる力を湿度は持つのである。

その当時私は奈良県北部のニュータウンに住んでいた。
たまの休みに息子を車に乗せて山奥のダム湖に釣りに行ったり、一般客のあまり足を踏み入れない秘境のような場所に好んで出かけた。

もうその当時、カーナビは標準装備であり、紙の地図を見る人間は少なかったと思う。
カーナビを信用しないわけではないが、過信はしないほうがいい。
機械であるカーナビは走る場所によったり、その時の条件で間違いを起こし私たちを迷走させる可能性を持っている。
私は子どもの頃から自転車での放浪癖があり、一度走った地域の紙の地図がだいたい頭のなかに入っている。
だから、息子と奈良県下を走る際にはあまりカーナビを気にすることは無かった。

その日は三重県寄りのダム湖まで釣りに行く予定で早朝に出かけた。
息子の夏休みは後半に入っていてちょうど今時分だったかも知れない。
山中の一般道は早い時間で対向車両も無かった。

私はそのエリアの地図を思い浮かべたのだが、空白のエリアがあり気になっていた。
一度も通過すらしたことの無いエリアがあった。
少し遠回りになるが、ハンドルをそちらに向けて切った。

しばらくすると、あたりに生える広葉樹の種類が違ってきたように思えた。県道は小川に沿って流れておりその川の向こうに集落があり、その向こうにも小川が見えた。
川に囲まれた集落なのである。
そして、そのあたりから妙に空気が湿っぽくなり、霧がかかってきたのである。
「父さん、山椒の匂いがする。」私より鼻の利く息子の言葉に間違いはなかった。
ひょっとしてと思い、車の速度を落として走ると、それはいたのである。

大山椒魚が県道の真ん中に横たわっていたのである。
車を止めて初めて見たこの生物を二人でまじまじと観察していた。

するとどこからか私たちの様子をうかがっていたかのように私たちと同じ年恰好の親子が出てきて、挨拶もせず、口をきくことも無く大山椒魚を抱えて川に向かって走り去ったのであった。

あっという間の不思議な出来事だった。

薄気味わるくなり、息子を乗せてすぐに車を出したのだが、私の見間違いでなければその親子らしき二人は一度も瞬きをしなかった。
まぶたが無いようにも見えた。

古い大きな家ばかりの集落だった。
長い年月を代々我々の知らない理解しがたい何かを行う人々の住む里なのかも知れない。
きっとそれ以上の詮索は無用のことなのであろう。
私の頭の中の地図は空白のまま残してあるのは言うまでもない。
そして多分、私はあのエリアには二度と向かうことは無いと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?