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台湾の母からの便り 

台湾に血の繋がりの無い私の母のような人がいる。黄絢絢こうけんけんさん、今月末で95歳を迎える。
さかのぼること50年前、私がまだ小学生、当時は豊橋駅まで徒歩5分の住宅街に住んでいた。母は駅前の総合病院で看護師をし、当時まだ走りの透析センターで働いていた。重度のてんかん発作と知的障害を持つ兄と私を置いて夜間勤務もよくしていた。そこに台湾大学病院の看護師たちがまだ台湾に無かった新医療の研修に来たのである。絢絢はその一人であった。40代の絢絢は生涯独身を貫いた。姉一人、弟二人の四人兄弟である。お父さまは早く亡くなっている。お母さまが苦労して四人を育た。お姉さんは大学病院の勤務医に嫁ぎ、ご主人は後年病院長をしていた。上の弟さんは機械メーカーを自分で起こし成功し、日本にもよく来ていた。下の弟さんは空港で働いていたが、慢性の腎不全を患っていた。この弟さんの事もあって志願して日本にやって来たと聞いた。日本の統治下で日本語教育を受けた絢絢は読む・書く・話す、は私たち以上で、日本の歴史にも詳しく私たち以上にある意味日本人らしかった。

母の性格で、たくさん来日した彼女たちを区別することなく大事にし、気にかけた。日本の食生活は貧弱だとよく絢絢は言っていた。里心がつくそんな彼女たちに母は我が家の台所を開放した。近所で調達できる食材で彼女たちが台湾で食べる料理を作った。その時はいつもと全く違う匂いが家中に満ち、台湾語が飛び交った。私と兄はいつも食べたことの無い料理に舌鼓を打ったのである。
母の貧弱な料理と、対照的な彼女たちのさまざまな料理は私の食に対する執着の根源になっているのかも知れない。

絢絢は一年間の実習で帰国した。その間にお母さまもやって来てずいぶん長い間、狭い我が家でともに生活した。詳しくは聞いていないがご主人はほぼ家にいない人でお母さまのご苦労は相当なものだったようである。だからかどうかは知らないが絢絢は生涯独身を通してお母さまの世話をした。その場所が絢絢が今いる老人ホームなのである。お母さまは100歳過ぎて尚お元気だった。亡くなった時には絢絢は70歳後半、そのまま所有していた部屋で今暮らしている。

何年か前に行った。台北から地下鉄に乗り淡水駅で降りタクシーに乗った。台北の繁華街とは違う海岸べりの田舎町だった。海の向こうは中国大陸である。絢絢たち一族のいろんな思いの詰まった中国大陸が海の向こうにあった。三月のこんな時期に行ったと思う。雨の時期だった。暗く台湾海峡に張り付くような雲は決して明るい未来を象徴していないように思えた。絢絢は玄関で笑顔で出迎えてくれた。遅い昼食は特別室で中華のフルコースをご馳走になった。いろんな話をして絢絢の生活する6畳ほどの部屋に行った。備え付けのベッドと収納棚は機能的に出来た手入れのよく行き届いたものであった。もうたくさん持たない自分の荷物の中に私が送った手紙やハガキを大切にしまってくれていた。小学五年で初めて会った時の私がいつまでも絢絢の中には生きているようであった。「お兄ちゃんのことばかり気にしたらダメよ、お酒飲み過ぎちゃダメよ。」と母の言うこととまったく違わない言葉をかけられて絢絢と別れた。玄関の前でいつまでも手を振っていた絢絢の姿が今でも忘れられない。

昨日、なんともタイミングよく絢絢からハガキが届いた。日付を見ると3月9日に投函している。コロナが理由なのかずいぶん時間のかかる渡航であった。若干危なげな字で、一月より非常に厳しくなっている対コロナの状況が説明されていた。そして「共同生活はやはり難しいものですね。又の知らせを待っています。」と括られていた。

必ず生きているうちに顔を見に伺いますよ、と返事を出すつもりである。
海の向こうで台湾の母が待っている。


ヘッダー画像が送られてきた絵ハガキです。施設で売っているんだと思います。その全景、見える海は台湾海峡です。


※この記事からまあまあ続いています。


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