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無意識の中にある基準


つくづく体力ないなぁと梅雨の時期は特に感じてしまします。

洗濯を干して片付をけして、いつもならこれから掃除ですが、体が重くて重くて少し横になりました。

若い頃ならこんな自分を心でビシバシ叩いたものですが、年を重ねて良いなと思う事は、昔より少しは丸くなるので、今日は調子良くないから休み休みやろうね、と自分に寄り添ってあげられるようになることです。

もう叩きませんよ。

そんな些細なことでもここまで来るのにはとても時間がかかるものです。

よくSNSなどで目にする、幸せに生きる言葉などは、自分の中に本当に落とし込むまで長い長い年月を要します。

だから人生には時間というものが与えられたのかなと。


話は変わりますが、よく心理学で表現する四文字熟語が苦手で、

自己否定 
自己肯定 
自己受容
承認欲求 
発達障害 
学習障害

とても固いなーと思ってしまいます。
特に発達障害という言葉がとても心に引っ掛かります。何を基準に?といつも疑問に思います。

専門家ではないので分かりませんが、何かしらの基準があってそれに沿わないので発達障害と呼ぶようになったのでしょうか。

でもそもそも世の中の基準が違ってたら?

基準が違えば発達障害という言葉も学習障害という言葉もいらないのかなと。

今の世の中は何かしらの方向へ持っていきたい為の常識や基準という魔物が影を隠して潜んでいるようです。



そして、かつては自己否定そのものだった私ですが家事が少々できなくも、あれもこれもダメな所だらけでも、自分を責めることは少なくなってきました。

料理は毎日作るものの品数は少ないし、朝起きるのは遅め。
夫が違う人なら離婚させられたかも知れません。

かなりダメダメな主婦ですが、それもこれも全て受け入れてもらえた時間が、実家で暮らしていた時間より長い時間、無条件に受け入れてもらえた時間が、私を受け入れられるようにしてくれました。

自己受容 です。

自分を受け入れ心を柔らかくしてくれるのは周りの支えなしでは無理でした。

夫に感謝です。
いつも家族のために働いてくれてありがとう。


(写真はこの前海で撮ったもの。
写真を撮るのも好きです。)


最後まで読んで下さり
ありがとうございました。

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