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恋とか性とか愛とか

人間関係を考えている。

人間関係全ては恋愛に置き換えないといけないのだろうか、例えば何気ない一言を共有したいという気持ちは恋愛感情でなきゃいけないのだろうか、

同性とならば気軽に何気ない事を共有できるのにそれは異性とは許されないのだろうか、恋愛に置き換えないといけないのだろうか。一緒に美味しいものを食べたいとか、日々の出来事を話したいとか、 くだらないことで盛り上がっていたいとか、好きなものを共有したいとか、あなたの話を聞いていたいとか、同性の友達に接するものと同じ温度で、あなたに接していたい。

それともあなたと過ごす日常は勝手にわたしの意志の関係ないところで熱を持ち始めるのだろうか、 同性の友達と過ごす日常が、振り返ればきらきらと輝いているように。
そんな日常をあなたと送りたいという感情は、恋愛に着地させなきゃいけないのだろうか、もっというなら、恋愛という言葉に置き換えなきゃいけないのだろうか。

触れることは愛情表現の形なのだろうけど、義務であってはいけないと思う。
結末に粘膜の接触があって、快楽があって、それしか、触れあいと呼べないのだろうか。

互いに話したいことを話して、感情を分かち合う時間を、触れあいと呼んではおかしいですか。
時間を共有したいという感情を、愛と呼んではおかしいですか。

結末が粘膜の接触になることが哀しい、快楽になることが哀しい、
最も基本的な欲だし、わたしにもあるものだけれど、相手にぶつけることが、関係の到達点のようになるのが、違和感でしかない。

いつの日か、あなたに触れることができたら、何かを実感できるのだろうか。
華奢なあなたの胸元に赤い痕を残せば、あなたが自分のものになったような感情を覚えられるのだろうか。

一緒にクスクスと笑い合うことが、当たり前になるのだろうか。

きっとわたしは安心できないのだと思う、曖昧な関係が怖いのだと思う、言葉がないと、印がないと、形がないと、他人のふりは容易くできるから。

身内に不幸があり(これに関しては改めて書きます)、親戚の集まりがあって、久しぶりに従兄に会った。もう一人に関しては連絡が返って来なかった。ふたりとも最近離婚したのだと、父づてに聞いた。いとこはそれを、亡くなった身内に黙っていた。

自分は結婚に向かない人間なのだろうなということを、人生の節々で思う。印がほしいくせに、言葉が怖いし、わたしは関係に形があれば、窮屈に感じてしまうのだろう。確認し続けるのだろう。

だから、橋を叩いて壊してしまう。

父と飲んだとき、「俺はお前の選択に反対しない」と言った。
いつか選択する日が来るのかもしれない。この名字を手放す日が来るのかもしれない。
その時わたしはどんな顔で、父と顔を合わせるのだろう。わたしの横には、誰がいるのだろう。

いいや、今は、今ある幸せを噛み締めていたい。家族がいて、支えてくれる友人たちがいて、生きている幸せを噛み締めていたい。

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