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「ママになったね」という書き出しの手紙

どうしたらこんなに生き生きとした文章が書けるのだろうと思った。
手紙をくれたのは、宮城県気仙沼市に住んでいて、わたしが「気仙沼のママ」と呼んでいる人だ。

わたしは1〜2歳のとき、少しだけ気仙沼市に住んでいた。
両親は共働き。小学校教師の母が育休を終えたタイミングで、保育園に通うことになった。
当時のわたしは、それはそれは頻繁に、熱を出したりケガをしたり、行きたくないと超絶ぐずったりしたらしい。
両親の実家は遠く、周りに頼れる人はいない。
なので母がしょっちゅう呼び出され、仕事にならなかったそうだ。
そして、「この子は保育園が合わないのかも」ということになり、わたしは保育園を辞めた。

しかし母は仕事を手放さなかった。母は31歳、1987年頃のこと。
わたしは、そのとき住んでたアパートの下の階に住む、親切な人に預けられた。
親戚とかでなく、まったくの赤の他人。
万が一何かあったら、現代なら「自己責任」と言われていただろう。
お母さんもよく決断したなぁと、自分が親になった今こそ驚く。

そのとき預かってくれてた人が、気仙沼のママ。
専業主婦のママ。ラーメン屋のパパ。小学校高学年の兄弟が2人。そんな優しいご家族。
何も覚えてないけれど、わたしはものすごくかわいがられていたらしい。
なぜそれを知っているかというと、ずっと付き合いが続いてて、昔から会うたびに、わたしがいかにかわいかったかを説明してくれるからだ。
こちらは覚えていないのに、なぜこんなに一生懸命、わかってほしいみたいに説明してくれるのだろう?と、いつも不思議に思っていた。

そしてわたしは、今年の3月に親になった。
パパとママからの出産祝いには、赤ちゃんの服をいただいた。
「ママになったね」からはじまる手紙にはまた、「みほちゃんが小さい時の事、いつも思い出しています。かわいかったんだよ」と書かれていた。
返事といっしょに子どもの写真を送り、お礼の電話をかけた。小さい頃から何度も聞いている、訛りが混ざった明るい声。
もらった手紙に「いつか会える日がくるといいね」と遠慮がちに書いてあったので、「子どもと会いに行くからね」と力強く言った。

そのママが、今月亡くなってしまった。
震災の被害にも遭わず、ずっと元気だったのに。
電話をかけたときも変わりない様子だったので、油断した。
強い後悔が残る。それでも、コロナ禍で0歳児を連れて会いに行く判断は、どうしてもできなかった。
こういうのを「仕方ないこと」と言うのだろうか。
最後に会ったのは2019年の夏。コロナの前に会っておいてよかったとも思うが、そう思わされることが悔しい。

ひとつだけ、ママに話したいことがあった。
なぜこちらが覚えていない赤ちゃんのときのことを、「とてもかわいかった」と何度も説明してくれるのか、わかったよ。
わたしも子どもが成長したら、同じように子どもに話すと思う。
「覚えてない」と言われても、とてもかわいかったことを伝えたい。
だって、今のわたしが、この目の前の小さい子を愛おしいと感じていることは、ずっと新鮮な記憶のままだろうから。
かわいいあなたと過ごせて幸せだったって言いたいから、一生懸命、説明すると思う。

「わたしも将来同じようにするだろうな」って、生きてるうちに話したかった。
そしたらきっと、今のわたしが毎日どんな気持ちで過ごしているかも、伝わっただろう。

子どもが成長したときに覚えていないことは、やっても意味がないとか、無駄なんてことはないと思う。強くそう思う。
赤ちゃんのころ誰かから大事にされて、楽しく過ごしてた毎日は、心を作る下地になっているだろうから。
手紙は、「いつまでもみほちゃんのパパとママでいます」と締めくくられていた。
大きくなってからも、楽しい思い出しかなかったし、大好きだった。
わたしは、悲しいことは悲しいままでずっと立ち直れない。
それでも自分が大事にされた日々は不変で、これからも子どもへ返していく。

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