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孤独を憂うのに一人になりたいなんて

「俺の奥さんは、さみしい病なんだよね」と言ったときの先生は、困ったような顔をしながらどこか誇らしげだった。その表情が意味するものを、私は大人になった今でも読み解こうとしない。

先生は、私が高校2年生のときに赴任した美術教師。学校行事の関係で仲良くなり、卒業してからもよく仲間たちと囲んだ。

私たちの在学中に結婚した先生の奥さんは、とても綺麗な人だった。北欧かどこかの血が混ざっている中谷美紀似の美人。別の学校に勤務する養護教諭で、気取らない雰囲気なのに優しかった。つまりは非の打ちどころがなかった。

卒業してお酒を飲める年齢になった頃、先生が郊外に建てた一軒家へ友人と遊びに行った。いつのまにかかわいい娘がふたり。おそらくママ似だろう。絵に描いたような幸せが目の前にある。

玄関先で先生を適当にからかっていると、アンティーク調のダイニングに招かれた。おつまみ、サラダ、パスタと、奥さんが次々と料理を振る舞ってくれる。20歳になった私たちもいっしょにお酒を飲んで、私はスカートと椅子にビールを溢す粗相をした。それでも奥さんはとても優しい。先生は「お前も座れよ」と言っていたけど、ずっと動きっぱなしだった。

いつのまにか子どもを寝かしつけた奥さんは、リビングで電気もつけずぽつんとテレビを観ていた。私が奥さんも一緒に…と声をかけようとすると、冒頭の言葉に続けて、先生は言った。

「あいつ、ああやって一人になる時間がないとだめでさ。孤独な人なんだよ」

さみしい病なのに一人になるの?と私が訊くと、先生は「うん」と答えた。他にも、異国の血、アイデンティティ、他人との相違、そんな言葉を並べていたと思う。遠くにいる奥さんの背中は静かだった。

私は、注いでもらったビールを飲みながら、覚えたての泡はとてもにがくて、先生の話に分かったような分からないような曖昧な相槌を打った。ほんの少しだけ、苛立っていた。

生まれつき美人で、立派な仕事をして、性格もよくて、優しい旦那さんがいて、可愛い子どもがいる、大人。あんなに何でも手に入れてそうなのに。それでもさみしいって、孤独って、何なんだよ。

帰り道、先生が口にした言葉たちをずっと反芻していた。あれらが私の頭から離れなかったのは、自分にも心当たりがあったからなのだろう。

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孤独を憂うのに一人になりたいなんて、ちっとも意味がわからない。そう思っていた。たくさんの人に囲まれて、愛する人と共に過ごせば、さみしさなんて感じるはずがないと信じていたからだ。

けれど、人生経験を積んでいく中で、だんだんと気づき始める。

一人だから生まれるさみしさよりも、相手の存在を感じながら生まれるさみしさのほうが深いこと。すべてを分かり合える人なんていないと知っているのに、その事実が時々どうしようもないさみしさを生み出すこと。

20歳の私が思うよりも、孤独はうんと複雑で多様だったのだ。

人との関わりの中で、ふと孤独を予感するとき、それを癒やす唯一の方法が一人になることだったりする。防衛本能にも似ているのかもしれない。想いがすれ違う手前で身を交わし、痛みを防ぐ。

誰かが言っていた。「一人になって、声をかけられるのを待っているんだ」と。そうだとも思ったし、違うなとも思った。私が一人になりたいときは、本当に外部とはかかわりたくない。

でも、戻る場所があると心のどこかで信じているからそう言えるのだろうか。

人間は矛盾だらけの生き物だ。そばにいて欲しいと放っておいてくれも、一緒くたに思うことがある。自分は一人になりたいと堂々言い放つくせに、相手から一人になりたいと言われたらちょっと傷つく。

その矛盾は、関わる相手がいてこそ生まれる。自分の心だけでも手に負えないのに、同時に他人の心まで慮るのは難しい。だから、人には言葉や会話という手段がある。一方で、その人自身にしか癒せない孤独もたしかに存在する。

大切な人から一人になりたいと言われたら、その気持ちを尊重したい。けれど、もし私を呼ぶ声が聴こえたとき、いつでも駆け付けられる場所にはいたいなと思う。

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