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その嘘は、優しさでも弱さでもなくて

先日、投稿したコンプレックスの話

この記事を書いて公開するときに一番心配していたのが、今まさに当事者(養父や養母)としてお子さんを育てていらっしゃる方の目に触れて、いやだったり悲しかったり、そういう気持ちにさせてしまわないか、ということだった。

クールに見られるんじゃなくて、もっと可愛らしいキャラで学生時代を送りたかった、というような類の話を書こうとしていたのに、性格形成の根源(と自分で思い込んでいるもの)に触れないわけにはいかず、気付けばがっつり芯を食ってしまった。自らも少々凹んだ。おいおい。

あの記事の公開後、実際に父親が違う環境で子どもを育てています、というお母さんから数名ご連絡をいただいた。今回に至っては「子ども側の声を聞く機会がないから貴重な内容でした」といった前向きなご意見を頂戴したので心底ホッとしている。

私自身に拡散力はないから、そんなにたくさんの人に読んでもらえるとは思っていないものの、インターネットに文章を載せるというのは、そういう人を傷付ける可能性を含む行為であるのは間違いない。

あの記事は「コンプレックス」がテーマだったので、両親や兄、弟との間にあったたくさんの出来事に関する記述をほぼカットしている。だから家族に対しての想いは言葉足らずになってしまった。

誰に伝えたいというわけでもないのだけれど、私にとってのお父さんは、紛れもなく今の父(養父)だ。産みの親より育ての親、という簡単な話でもなくて、それはやっぱり長い間、本当に長い間、実の娘同様に育ててもらった恩や絆が深いからだと思う。

恩や絆、という言い方をしたが、そういえば私には反抗期がなかった。どうしたって好き嫌いよりも「育ててもらっている」感謝が前に出てしまう。こういう感情は通常ならずいぶん大人になってから芽生えるものなのかもしれない。でも、私と、おそらく兄も、ずいぶんと幼い頃から養父に対してそういう気持ちを持っていた。もちろん人と人だから、喧嘩して口をきかない、なんてこともあったけれど。

ところで、真実(養父であること)を伝えないというのは、小さな嘘を積み重ねることでもある。

多感な10代の頃は「お父さんとお母さんは嘘つきだ」と思ったこともあった。思春期特有の不安定さは、こういう面へダイレクトに影響してしまう。とはいえ、きっと私を傷つけないための優しい嘘に違いないなんて考えていた。

20代ともなると、だんだん「親だってひとりの人間」だということが分かってくる。見えている姿だけがすべてじゃないと悟り出す。だから嘘は弱さの現れなんじゃないかと思う時期もあった。

自分の中で散々こねくり回した挙句、今はこんなふうに考えている。両親が積み重ねてきた嘘を「思いやり」とは呼べないだろうか。綺麗事かもしれないけれど。

どうしたら私たちが、子どもたちが健やかに育つのか、考えてくれたからこそなんだ、きっと。

きっと、という表現しかできないのは、こうやって書いておきながらも、まだ両親ときちんとした形で向き合って自分の想いを伝えられていないからだ。私が結婚する時に母がやっと真実を打ち明けてくれて、初めて実父のお墓に手を合わせることができたのが数年前の話。

(我が家の場合は死別なので、実父のことについても、もう少し知っていきたいと思っている)。

ステップファミリーに限らないけれど、大切にして、慈しんで、という行為は、絶対に相手へ伝わると思う。それを忘れなければ、回り道をしたって必ずお互いにとって「すとん」と納得できる関係性が出来上がるんじゃないかなぁ、と。唯一無二の形で、いつのまにか。

私なんかより、ずーっとずーっと母のほうが、養父のほうが、悩んで葛藤してきたはずだと、ようやく思えるようになったのは、自分に子どもが生まれてからだ。

先日、結果発表された「#こんな社会だったらいいな」コンテストの中で【「ステップパパの研究会」、はじめます。】という記事を拝見してドキッとした。あぁ、そうかぁ、うん、そうだよなぁ、と思った(言葉にならない)。

両親たちが、これまで戦ってきた日々を、荷物を、軽くするのは私の残された役目なのだろう。足腰弱ってきているみたいだから急がないとね。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。