見出し画像

『語学の天才まで1億光年』ノート

高野秀行著
集英社インターナショナル刊

 この不思議な本のタイトルは、ノンフィクション作家・高野秀行の世界の辺境の地での探検と語学習得の旅の記録である。

 著者は学生時代から現在まで25を超える言語(外国語)を習い、現地で使ってきたという。そこだけ読むと、日本のイスラム学の権威で、言語学者であり東洋思想の研究者であった井筒俊彦を思い起こすが、本を読み進めると少しだけ(笑)だけ違う。「語学の天才になりたい」というのが著者の叶わぬ夢なのである。だから〝1億光年〟という遙か想像もできないような遠くにゴールがあるのである。

 著者にとっては現地の言葉は探検のための道具なのであり、またブロークンな現地語でも、相手に取り入る手段なのである。しかし言語というものは深い。現地語を学ぶと現地の人たちの世界観もこちらの体に染みこんでくるようで、それが面白くてたまらないという。だから、言語の習得は道具であったのが、いつの間にか「探検の対象」にもなってしまうのである。

 著者が学んだ言語をこの本から抜き出すと、英語、フランス語、リンガラ語、ボミタバ語ほかコンゴの民族語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、タイ語、ビルマ語、シャン語(ミャンマーのシャン州やタイ北部で使われているタイ語に近い言語)、中国語、ワ語(中国雲南省西南部からミャンマーのシャン州東部に分布)などである。

 著者が7年間の大学生活で学んだ言語は、英語、フランス語、リンガラ語(主にコンゴで使われている。首都のキンシャサでの共通語)、ボミタバ語(主にコンゴ北部で使われている)、スペイン語、スワヒリ語、ポルトガル語だ。
 ちなみに、世界には言語が7千から8千種類あるという。中国だけでも、筆者が知っているだけでも、北京語、広東語、上海語があり、中国人通訳の人に聞いても互いには余り通じないようである。簡単なお礼の言葉にも違いがある。

 著者は探検家としてデビューして、コンゴに通いはじめた頃、大学の近くにあった小さな翻訳会社が英語とフランス語の翻訳者を募集しているのを見つけ、試しに応募したそうだ。とりあえず辞書を使っての翻訳の試験があり、どちらの試験も難題であったが、辞書を引きまくり、手探りでなんとか日本語に訳して提出したら、なんとどちらにも合格して、翻訳者としてその会社に登録されたそうだ。翻訳料は自己申告制で、相場を知らなかった著者は高めに設定したようで、料金の安い翻訳者から順に仕事が回ってくるようで、英語は登録者も多かったので仕事は来ず、フランス語の方は月に1、2回は仕事が回ってきたという。

 ある日、社長から呼び出され、イタリア語の医学論文を渡され、明後日までに翻訳せよと頼まれたが、イタリア語など習ったこともない著者は断るが、社長はフランス語とイタリア語は文法が同じだから大丈夫といわれ、無謀にも著者は引き受けたのである。著者は自分で言っているが、自分のことを、残念なことにこういう非常識な展開が大好きな性分であると言い、面白いと引き受けるのである。

 著者は早稲田大学の図書館に籠もり、医学部がない早稲田でも、英和の医学事典くらいはあるだろうと期待し、医学用語は英語でもラテン語をそのまま取り入れているだろうとの推測で探したら置いてあったので、その英和の医学事典とイタリア語の辞書を駆使してどうにか日本語の文章にして締め切り日に社長のところに持って行くと、「あとで見る」との返事であった。
 著者は結果がどうにも気になって、事務所に電話すると、社長からはチェックしたけど何も問題はなかったとの返事。定冠詞と知らずに辞書で引いた人間が翻訳したものが通ってしまったのである。本当にチェックしたのだろうかと半信半疑であったが、「プロは結果である。依頼人が満足すればそれでいいのだ」と自分も納得した。
 その後も、数回英語とフランス語の翻訳を依頼されたが、ある日、社長から手紙が届いた。
 その内容は、「あなたは英語。フランス語ともプロとしての翻訳家としての実力が足りません。まだ若いのでこれにくじけず、もっと勉強して経験を積んでください」というものであり、早い話〝クビ〟の手紙であった。
 著者はショックを受けるが、英語とフランス語はダメとは書かれているが、イタリア語はよかったのかなと思うのである。永遠の謎だとは書いているが、これは著者の楽天的な性格のなす思考であろう。
 筆者はここまで読んで、思わず吹き出してしまった。

 インド、アフリカ諸国、ヨーロッパ、南米、東南アジア、中国などを旅した著者の真面目で、ちょっとおかしく冒険心と好奇心に満ちた〝青春記〟である。

 最後に――本書の帯に「超ド級・語学体験記」とあるが、超ド級という言葉はいまも通じるのだろうか。
 ご興味のあられる方は「超ド級(超弩級)」を調べてみてください。いまから100年以上前の英国の戦艦に由来する言葉である。こんなキャッチは久しぶりに見た。ちなみに関西弁の「ドアホ」の「ド」とは関係はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?