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[書評] 茶の本 武士道 代表的日本人

関岡孝平氏が訳した『武士道 ~日本のこころ~』を読み/聴き、それについて書こうと思ったが、この本が単独では出版されていないので、各論としての『武士道』のことは他日にゆずり、今は同氏訳が収められた『現代語新訳 世界に誇る「日本のこころ」3大名著 ──茶の本 武士道 代表的日本人』について述べたい。

この書には次の三つの書が、いづれも関岡孝平氏訳で収められている。書名のあとにAudible版の朗読者名を記す。

①岡倉天心『茶の本』(大橋俊夫)
②新渡戸 稲造『武士道』(林 和良)
③内村鑑三『代表的日本人』(HARUO)

それぞれ、明治維新前夜の1860年代に生をうけた著者らが、日本の諸相について、諸外国に向けて高らかに英文で綴った古典である。

①は 'The Book of Tea' として1906年に米国で、②は 'Bushido: The Soul of Japan' として1899年に米国で、③は 'Representative Men of Japan' として1908年に日本(Keiseisha)で、それぞれ刊行された(③は 'Japan and Japanese' (1894) の改訂版)。

欧米のキリスト教文化圏の読者を意識して、どの書もキリスト教を比較の視座として含む。中でも、札幌農学校の二期生である新渡戸と内村はキリスト教の洗礼を受けているので自らの問題意識の反映でもある(霊名は新渡戸はパウロ、内村はヨナタン)。

なお、新渡戸と内村は札幌農学校に入る前、東京大学予備門でも同級生であった(新渡戸は13歳、内村は14歳頃)。札幌農学校の一期生にはウィリアム・クラーク博士('Boys, be ambitious like this old man' で有名)が聖書を講じて、キリスト教の影響を大いに与えた。

Audible版のオーディオブックとしては、いづれも読み応え/聴き応えがある。ただ、①は「妙なる」をみょうな読み方をし、③は「著した」をへんな読み方をし、興醒めであることおびただしい。〈聴いてわかる〉日本語の本としては、正確な読みを心がけてもらいたい。そうでないと、聴いてわからない。

内容について。①は茶の歴史、道教や禅との関り、茶室、花などについて、手短にまとめた書。ただし、列挙が多く、有機的叙述にやや欠けるきらいがある。

②と③とは、精神的なレベルでつながるところがあり、②で消えゆく武士道を扱い、③で〈最後のさむらい〉たる西郷隆盛を扱う。

②の中に、おやっと思う記述があり、興味を惹かれたので、それについて書く。〈国民性というのはさまざまな心理的要素の集合体〉であり、〈国民とは切っても切り離せないもののはずである〉と新渡戸が述べた後に、次の文章がある。

しかしエマソンは、ル・ボンのように、それを民族や国民に固有の財産だとするのではなく、「すべての国において、最も影響力のある人間を結びつけ、相互理解、協力しあえる要素。そして、もし誰かがその秘密結社の符号を見失っても、すぐに感知できるような何かである」とした。(『武士道』第16章)

つまり、民族に固有のものとしてでなく、〈すべての国〉における普遍的なものとしてエマスンは論じるのである。それを理解し合うのに秘密の符牒はあるのだがそれを忘れても感知できると。その秘密部分を言うためのおそらくは比喩として〈秘密結社〉の語を用いているとも取れる。

原文は次のとおり。

But, instead of making it, as LeBon does, an exclusive patrimony of a race or people, the Concord philosopher calls it “an element which unites the most forcible persons of every country; makes them intelligible and agreeable to each other; and is somewhat so precise that it is at once felt if an individual lack the Masonic sign.”

新渡戸がこれを引いたのは、エマスンが用いた 'Masonic'(「Freemason の」)の意味を正確に了解してのことと思われる。もちろん、エマスンは Masonic Lodge での講演などもあるから当然その意味はわかっている。新渡戸もまたわかっているのだろう。

それを忘れても通じるほど 'precise' であることが、ここでの要諦であるが、残念ながら、関岡訳はその部分を抜かしている。この precise は、例えば、precision farming「精密農業」というときの precision の意味である。

ある畑にトラクタで種を蒔くとする。それを衛星によるGPSなどを駆使した情報をきちっと補正して、寸分違わず畝に沿って行なうような種類のことである。つまり、精密にこれ、ということが規定されるときの precise である。

メースン同士が符牒を使うときに何通りにも解釈できては困るだろう。正確に意図するところが伝わらなければならない。

逆にいえば、それが通じるような了解が成立している集団については、すべて普遍的に当てはまるようなもののことを、ここでは述べているのである。

かりに〈武士道が日本人に、特にさむらいに刻みこんだ性質〉は〈日本人に強い影響力を及ぼしている〉としても、それが日本人だけにかぎられるようなものではないということである。だから、ことによると、その理解は日本人にのみかぎられるとも言えないことになる。

そう思っているからこそ、新渡戸は英文で本書を著した(あらわした)のだろう。

『武士道』の日本語訳は複数ある。手許にいくつかあるので、そのうちの一つを引いてみる。

だが、コンコードの哲人(エマソン)は、ル・ボンのように、それを民族もしくは国民の固有の遺産とすることはなかった。そして次のように語ったのである。
「あらゆる国のもっとも有力な人々を結びつけ、彼らを互いに理解し、同意できるようにする要素である。だが、それは個々人が秘密結社(フリー・メイスン)のような符号を失っても、ただちにそれとわかる明確な何かである」と。(岬 龍一郎訳)

ともあれ、『武士道』にフリーメースンが出てくるとは驚きである。

この言及が、どれほど武士道理解に資するかは不明であるが、欧米の読者に武士道の神秘性を示唆するには十分であろう。

#書評 #武士道 #新渡戸稲造

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