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[書評] ライロニア国物語

レシェク・コワコフスキ『ライロニア国物語』(国書刊行会、1995)

ポーランドの哲学者による奇想天外な短篇集

ポーランドの哲学者/作家レシェク・コワコフスキの短篇集(1963)。

原題は '13 bajek z królestwa Lailonii dla dużych i małych'(大人と子供のための13のおとぎ話)。1989年に英訳が 'Tales from the Kingdom of Lailonia and the Key to Heaven' の題で出ている。

本集は次の13篇からなる。

1) ライロニア国を探して
2) こぶ
3) 子どものおもちゃの話
4) 美しい顔
5) ギヨムはどうやって年輩の紳士になったか
6) 有名な人
7) マイオルの神はいかにして王座を失ったか
8) 赤いつぎ
9) 物たちとの戦争
10) 長寿問題はどのように解決されたか
11) いまいましいドロップ
12) いちばん大きな口論の話
13) 大いなる恥の話

1)「ライロニア国を探して」は、この物語群の由来を述べる前口上。

2)「こぶ」は、石工のアイヨにこぶができ、医者が四人集まって病気について相談する。全治の見込みはないが、〈治療の目的はただ治療すること〉という訳のわからないトートロジをもちだし、新薬を開発する。医学はこの症例に対して無力だと108年前に外科医アアナンテコッタアタマが記録しており、それに賛同する医者がいたにもかかわらず。新薬投与の結果は現代にも通じるブラック・ユーモアとしか見えないが、アイヨの息子はこの薬をむりやり飲まされかけるものの、屈服せず、町から逃げだす。あっぱれ。

この短篇を読んで、かつて読んだ研究書 Max F. Schulz の 'Black Humour Fiction of the Sixties' (Ohio UP, 1973) を思いだした。主として1960年代の米小説家 John Barth, Kurt Vonnegut, Thomas Pynchon らを論じたものだが、このコワコフスキの作品もそれらに通ずる同時代性を帯びていると感じる。

時代に漂うある種の不安、喜劇と見做すしかない黙示的状況、多義的な世界を読み解く形而上学、パロディの政治学といった、当時つかわれた批評用語が頭をよぎる。

そこからどこへ道が通じるというのか。英訳に現れたように、〈天国への鍵〉を含むのか。見えない道の模索は現代も続いている[『天国への鍵』は1964年刊行の聖書物語集]。

6) 「有名な人」は有名な人になりたかったタトの話。ただ有名になりたいというのではなく、何かで世界一をめざす。努力のかいあって多くの分野で世界で最高にはなるのだが、なにせ、分野がニッチ過ぎて、人からの賞賛が得られない。世界一のどもりをめざして、自分の名前を言うのにさえ少なくとも1時間かけた。最後に到達した世界最高目標は奇想天外なもので、その通り実行したのだが、タトの姿はなぜか消えた。読者には、タトの観察〈名声や評価がこれほど不公平に分配されている以上、世界はきっとものすごくまずい仕組みになっているに違いない〉が印象に残る。ここではおそらく〈世界〉という言葉が問題なのだ。

7)「マイオルの神はいかにして王座を失ったか」は形而上学的におもしろい問題を提起する。ルルの町は厳格な神マイオルが統治する。神の命令は〈人にとって上にあるものは神にとって下にあり〉で、逆もまた真。この法を認める者は天国に行き、否定する者は地獄に行く。地上での行いを死後正すことはできない。この法はトートの〈上にあるもののごとく下も〉(エメラルド・タブレット)のパロディのように見える。あるとき、ウビの弟オビが、〈上のものは上のもの〉と、目に見える通りのことを主張しはじめた。オビは裁きを受け地獄行き。兄のウビは神の法を否定しなかったから天国へ行き、〈幸せだなあ〉と天国の住人の言葉を復唱するのみ。けれども、弟のオビのことを思いだし、ウビは〈幸せじゃない〉と叫ぶ。はたして兄弟の運命は、また天国と地獄の仕組みはどうなるのか。

9)「物たちとの戦争」は深遠な物語だ。このあたりまで来ると、本書が単に人を喰った、ばかばかしいおとぎ話だなどとは思えなくなる。物たちと人間との関係の寓話のように見えながら、いや、これは実際にありうるのではないかと、だんだん思えてくるのだ。ジャムつきクレープがディットに対しては性格が悪いのに、何の疑いも持たずひたすら物を信じるリナにはそういう面を見せない。ディットは物の悪意も手口も知っているのだ。そういう者に対しては物は意地悪なふるまいをする。アイルランドの妖精にそっくりだ。これが自分の外側の物にとどまっている場合にはまだいい。だが、この物語の怖いところは、自分の一部分である物までが、卑劣ないたずらをするようになることだ。例えば、髪や心臓や耳。それらと折合いをつけられなくなると、事態は深刻である。哲学者コワコフスキが、自分とは何か、物とは何か、自分と物との関係はどういうものか、についての問いを投げかけているのだとすると、答えははたしてあるのか。

訳稿は芝田 文乃氏がつくり、それに師匠筋にあたる沼野 充義氏が手を加えた。いつものことながら、芝田さんの訳はすばらしい。

#書評 #コワコフスキ #ポーランド

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