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輝く

輝くという言葉の意味をあらためて考える。

特別なことでもあるし、身近なことでもある。たとえば

3コマめの赤ちゃんの顔。輝いている。

たとえば

9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(聖ルカによる福音書)

イエスは輝く。モーセとエリヤは栄光に包まれる。この違いは特別なものだ。

つまり、輝くことじたいは日常にも見られるのだが、ある特別な場合には、輝くものと、(その)光に包まれるものとが現れる。

国語辞典をひくと、かがやくはそれ自体が強い光を出したり、他から強い光を受けたりして、まぶしい光をはなつとある。みずから光を出すのが原義でないかと想像する。

そう思ったが、もともと、〈強くきらきらと光を放つ。光を受けて強く反射する。〉の両意が、(おそらく)平安のころからあった(古典基礎語辞典)。万葉に例はないようだ。

神学的思考と言語的思考とはかならずしも重ならないこともある。重なることもある。存在論的には輝くを神学の立場で考えたい。

2019年の日誌を遅まきながら始める。

#日誌 #日記 #輝く #神学 #国語 #ルカ


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