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[書評] Apparition と Authority

Gustavo Vázquez Lozano, 'Mary Magdalene: The Life and Legacy of the Woman Who Witnessed the Crucifixion and Resurrection of Jesus' (2017)

Gustavo Vázquez Lozano, 'Mary Magdalene' (2017)

マグダラのマリアに関する本は両極端に分かれる。

マリアを「使徒の中の使徒」(apostolorum apostola)と認めるが、四福音書に書かれたことに厳格に立脚する立場がひとつ。['apostolorum apostola' は、聖トマス・アクィナスがマリアをそう呼んだことば(ラテン語)。使徒たちに遣わされた者(使徒)のこと。英訳は 'the apostle of the apostles' と 'the apostle to the apostles' の両方が見られる。]

もうひとつは、四福音書に書かれた内容だけでは足りないとして、非正典の福音書なども援用し、マリアにもっと重要性を付与する立場。[非正典(外典)の書は、例えば、マグダラのマリアによる福音書、ピリポによる福音書、ピスティス・ソピアなどが含まれる。]

このどちらかの方向に分かれるのが普通なのだが、本書は珍しいことに、そのどちらでもない。正典・非正典の福音のどちらにも目を配りつつ、もっと根本的な問題を提起するのだ。このアプローチは新鮮で、小著ながら印象に残る。

本書はいろいろな論点を挙げるが、一例として apparition と authority の問題を取上げよう。これは、簡単にいえば、復活後のイエスに会ったこと(apparition)と、会った人の権威(authority)の関係の問題である。

典型例がパウロの場合だ。パウロは、いわば、「遅れてきた」弟子で、イエスの宣教活動中に弟子たちの一人であったわけではない。それどころか、できたばかりのキリスト教を迫害する側だった。それが、旅の途上でイエスに出会い、蒙を啓かれたことで、キリストの強烈なシンパに転向する。そして、〈パウロ神学〉のすべての根拠を、この復活のイエスとの出会いに置く。

apparition の語について少し述べると、この語に照応する動詞が英語の語彙にはない。appearance には appear という動詞があるのとは対照的である。

apparition は亡霊と訳すこともあるが、超自然的な人や物の出現のことである。普通の物質的身体が現れたなら、appearance の語などは使えるが、この場合は、そうでない。

そういう特別な出現を端的に表す日本語は(名詞でも動詞でも)たぶんない。現れた人や物が超自然的なものであることを示すことによってしか、日本語では表現できない。例えば、『メジュゴルイエにおける 聖母マリアの出現』のように。

そういうわけで、復活後のイエスの出現には、英語では apparition の語を宛てるほかない。

それで、このイエスの apparition を見たことが、初期教団を指導する権威(authority)の源泉になる(新約聖書学者 John Dominic Crossan の著書 'Jesus: A Revolutionary Biography', 1994, など)。

この観点に立って考える。まず、パウロは復活のイエスの最後の証人であると自分で述べている('and last of all, as to the child untimely born, he appeared to me also.' [1 Cor 15.8, ASV]「そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。」[コリントの信徒への手紙一 15章8節、聖書協会共同訳])。

では、復活のイエスの最初の目撃者は誰か。そして最初にそのことを宣べ伝えたのは誰か。そのような人物は、初代教会において信じられないほどの影響力と権威をそなえた人物であったに違いないと、本書の著者は述べる。

紀元1-2世紀の典拠には、マグダラのマリアがその人物であったこと、かくして初代教会の柱であったことを示すものが数多くあると著者はいう。

ここまでは、自然で、普通に理解できる。ところが、実際にはどうだったか。奇妙なことに、早くも1世紀半ばには、マグダラのマリアの特別な地位としての姿は消え始め、彼女は信頼できない、ヒステリックな目撃者であると描かれ、のちには、ふしだらな女性、痛悔する罪びととまで描かれるようになる。

この変化は、控えめに言っても、きわめて不可解である。不自然である。

評者には、さらに、Acts(使徒行伝)にも、パウロの書簡にも、彼女への言及がないことが、どうにも解せない。特に、パウロの書は福音書よりも前に書かれたとされているから、なおさら腑に落ちない(パウロの最初の書簡は紀元48-49年頃に、その他の書簡はその後の約十年間に書かれた)。

つまり、apparition と authority の観点からすると、1世紀半ばから始まるマグダラのマリア像の激変は、何か、ある種の力が働いたのではないかと思わせるほど不可解である。

こうした根本問題などを提出している点で本書は興味深い。

#書評 #マリア #イエス #復活 #聖書



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