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     小竹向原の剣豪

 朝5時半になると、その剣道の人は目を覚ました。
 半熟卵色の太陽が昇り、二階の窓から朝日が射す。
 窓を大きく開け、太陽に向かって拝礼すると、自室の神棚を見上げた。
 毛筆で「剣道宇宙一」と太く書かれた御札が捧げられている。
 両腕を大きく回して、手を合わせて拝礼すると、さらに一発柏手を打った。
 大きな音が響いた。場が引き締まる。
 剣道の人は、醤油をかけた卵かけご飯だけ食べると、道着を来て、木刀を持って、自宅を出た。家の近所を掃除する老婆と、気持ちよく挨拶を交わす。車が走る道路が見えてきた。
 剣道の人は、小竹向原から桜台に向かって、環状七号線沿いを歩く。今日も車通りは多い。
 「おはようございます!」
 その剣道の人が、桜台陸橋下に入ると、吹奏楽を練習している音大生たちに挨拶した。
 「「「おはようございます!!!」」」
 すでに三人くらい集まっていた。時刻は朝の6時だ。朝練か。
 ここが道場だった。門下生は全て近所の音大生たちだ。吹奏楽をやっている。
 心で道場を開けば、そこはもう道場だと剣道の人は思っている。
 全ての道はローマに通じる(注7)そうだが、全ての道は剣に通じると思っている。宇宙に通じると思っている。だから道場主として、音大生たちの面倒も見ている。何の問題もない。
 「調子はどうですか?」
 道場主が日課である素振りに取り掛かる前に、音大生が声を掛けてきた。
 「そろそろフリー〇から一本取れそうだ」
 「……フ〇―ザですか。戦闘力高そうですね」
 「53万なんてあっと言う間だ」
 この辺の会話は鉄板だった。いつも厚くて濃密だ。完璧に業界人の会話だった。
 道場主は素振りを始めた。恐ろしく鋭い一撃だ。回数と速度を上げていく。
 今日は何回行けるか。万歩計の「スカウター」を持っている。1日は86400秒あるが、常人が1秒1回として、理論上86400回振れ、達人が0,5秒で1回としても、172800回が上限とされる。だがこの道場主はすでに限界突破していたので、それ以上の数字が出せる。
 頭はおかしくない。正常だ。いや、清浄だ。迷いはない。人生とうに捨てている。
 近く剣道の大会があった。日本一を目指して、全国から兵(つわもの)どもが集い競う。
 だがこの兵は、日本一で慢心しない。世界一を目指す。宇宙一を目指す。〇リーザを倒す。
 門下生である音大生たちは、この兵が自己に対して抱いている自己イメージに畏怖していた。桜台陸橋下の道場は、固有結界が展開されていて、ここは異界ではないかと噂されていた。だがそれだけに、ここで練習するとバフが掛かるとも言われていた。
 よく分からないが、この道場で指導を受けていると、演奏がよくなるのだ。
 午前中の講義が始まる頃、道場を訪れる門下生たちが入れ替わり始めた。朝練を終えて、音大に行く者とこれから来る者に分かれる。基本的にここに来るのは吹奏楽の学生が多い。
 ふと、江古田でショパンが出たと音大生たちは噂していた。英霊の類らしい。その瞳に星の輝きを宿し、天上の音楽を奏でたと、ピアノ科の女子大生の証言を人伝に聞いた。
 さもありなんと兵は思う。我すでに宮本武蔵と対戦せり。
 精〇と時の部屋は本当にあった!
 先日、夢の中で、この兵は初めて宮本武蔵と遭遇し、対戦した。
 田んぼの畦道のようなところで、兵は木刀を構え、武蔵は無手だった。兵は上段から取りに行ったが、躱されて、すれ違いざま、足を掛けられて田んぼにボチャンと落ちた。
 夢はそこで破れた。
目を覚ますと、しばらく時間を忘れた。頭の中で無限に対戦を反芻した。
 今まで夢の中で、素振りを繰り返して、1日172800回の壁を突破していたのだが、ある時から英霊が現れるようになった。それから夢の中は、兵法者の実戦的な修行場と化した。
 天剣と言われた沖田総司とも対戦した。全く勝負にならなかった。実は戦う前から負けていたのだが、それでも意地でも剣を交わしたいと思い、全てを捨てた突きを見舞った。
 正面からぶった斬られて、夢は破れた。
 暗闇のヘドロの中で、甲賀忍者と対戦した事もある。実力がある程度、伯仲していたのか、思わぬ長期戦となったが、最後は卑怯な手に掛かって負けた。これは悔しかった。
 北辰一刀流の千葉周作から直接師事を受けた事もある。
 道場のようなところで対戦したが、いきなり面を取られて、それで終わりかとガッカリしたのだが、なぜかこの時夢はそこで破れず、続きがあった。
 その千葉周作の瞳は優しかったかもしれない。夢の中で思う存分、稽古ができた。
 一通り稽古が終わった後、助言さえしてくれた。
 変わった処では、三国志の呂布と対戦した事もある。馬で突撃してくる呂布から大上段から斬られて終わった。あの馬自体英霊クラスで、二対一で戦うようなものだった。卑怯なり。
 アーサー王の配下で、「午前中は力が三倍のガウェイン」と名乗る異国の英霊とも会った事がある。この時はなぜか戦わず、兵法者として、穏やかに言葉を交わすだけで終わった。
 最近、宮本武蔵と二回目の対戦をした。
 前回と同じく田んぼの畦道のような場所で戦ったが、今度は、武蔵は無手ではなく、木刀を持っていた。だが構えているという訳でもなく、自然体で立っていた。
 どうやら、武蔵が武器を持つぐらいの相手にはなったようだが、実力の差はまだまだありそうだった。相手の強さが測れない時点で、雲泥の差があると千葉周作から言われている。
 立ち会った感じ、無理と分かって飛び込めた沖田の時より、押されていた。勝てなかった。
 だが夢から醒めると、毎回何か掴んで、パワーアップしていた。何一つ無駄はない。
 実際、剣道の大会で成果が出た。去年、剣道日本一を競う大会で、準決勝で最優勝候補である50代の自衛官を初めて破った。見違えるような強さに、対戦相手も驚いていた。これまでは勝てない相手だったが、夢の中で対戦した兵どもに比べれば、大した事はなかった。
 「君の剣は本物の修羅場を潜ったような強さがある」
 50代の自衛官は感心したようにそう言っていた。
それはそうだろう。夢とは言え、生き死の戦いをしている。負ける筈がない。
 去年は決勝で、やや変則的な戦いをやる40代の警官に負けて、日本一を逃した。
 だが次は勝つ。実際、試合でもそういう感じが出ていた。戦闘経験の差で向こうが勝った感じがあったが、次対戦する時は、それさえも量的に追い越していると思われた。
 50代の自衛官、40代の警察官、40代の消防団員、30代の団体職員が、いつも決勝・準決勝で争っていたが、前回からその枠を切り崩して、20代前半の兵が入り込んだ。
 これまでは経験の差で負けていたが、今は違う。夢の力でブーストされている。〇神と時の部屋が使えるようになって、稽古の時間が無限大にまで伸びたからだ。
 兵は時間の壁を破ったのだ。これは古豪たちと同じ出発点に立った事を意味していた。これで負ける筈がない。四人の対戦相手は全て社会人で、昼間仕事をしている。
 それに対して兵は、人生の全てを捨てて、剣を取った。今は兵法者の道を歩いている。
 「人生捨てた奴にはちょっと勝てない」
 50代の自衛官にして、そう言わしめた。彼は空自の三佐で、戦闘機パイロットだった。
 最初は親がうるさかった。だが親に何でも感謝して言葉を返していると、そのうち何も言わなくなった。兵の強さが尋常でない事が伝わったのかもしれない。あるいは大会の成果を聞いたのかもしれない。あるいは桜台陸橋の道場に集う音大生たちのお陰かもしれない。
 門下生も少なからず、兵の精神的な影響を受けていて、音楽の分野でそれぞれ成果を出していた。兵が持つ圧倒的な自己イメージは、迷える音大生たちの精神を鼓舞し、通常よりも高いステージで演奏ができるようになるとされていた。
 音大の方でも兵の件は噂になっていて、学祭に招待されて、演奏会まで鑑賞した事がある。例の羽沢名物、滂沱の演奏会だ。兵はそこで自分の夢と同質的なものを感じた。
 いつしか、羽沢の人々は兵の事を、小竹向原の剣豪と呼ぶようになっていた。
 まだ20代なのに、その気になれば、周囲を圧する気さえ漂わす事ができた。
 自分の剣は、冗談ではなく、いつか宇宙にまで届くと確信している。どこかにフ〇ーザはいないか?現実世界では無理だが、夢の中では自由に動ける。肉体を忘れた瞬間が一番力を発揮できる。どうしても目を覚ました後は、自分の動きがイメージ通りにならなくてもどかしい。
 どうやら次の壁は、この辺にありそうだった。
 最近、昔の本を読んでいると、仙人の類は実際にいたのではないかと思うようになった。四国に行った時、空海の話を聞いて、ピンと来る事があった。夢で時間の壁を破ったのだから、現実世界でも破れる筈だった。恐らくこれが常人とそうでない者を分ける分水嶺となるだろう。
 午前中が終わり、兵が日の丸弁当を使っていると、不意に女子大生が声を掛けて来た。
 「……次の大会はいつですか」
 「一週間後だが」
 兵は、その音大生から小さいペットボトルのお茶を貰った。お礼を言ってキャップを捻る。
 「ちょっと訊きたい事があるんですけど、いいですか?」
 その女子大生は吹奏楽の学生ではなかった。何も楽器を持っていない。
 兵が先を促すと、その音大生は随分長い間、躊躇った後、やっと口を開いた。
 「……昔の人って、今も存在しますか?」
 それは不思議な問いかけだった。だがその兵にとっては何の事もなかった。
 「存在する。ちょっと時間が異なるだけだ。今も我々を見ている」
 「……じゃあ、道ってありますか?」
 微かに女子大生の瞳が光ったように見えた。あるいは星の残光だったかもしれない。
 「そこに道はある。どこまでも天高く昇る道だ。宇宙まで通じている」
 兵がそう答えると、その音大生はその回答に満足したのか、立ち上がった。
 「ありがとうございました。次の大会頑張って下さい。私も寝ないで頑張ります」
 「いや、むしろ寝た方がいい。夢を見るんだ」
 その女子大生は、ちょっと意味が分からないというように、首を傾げてみせた。
 その気になれば、1日12時間でも18時間でも剣は振れる。徹夜する事もできるが、夢の時間を確保しないのは馬鹿らしいので、むしろ寝る。最近は夜9時半から朝5時半まで寝ている。
 夢で無限大にまで伸びた時間枠で、兵法者としての道を歩く。これが修行だ。
 「夢で戦え。それができれば活動時間が伸びる」
 音大生は微笑みを浮かべて立ち去った。完全には通じなかったかもしれない。まあいい。
 その日の夜、兵が素振りを終えると、まだ残る音大生たちに声をかけて道場を後にした。
 環七沿いを歩いて帰ると、途中にラーメン屋があった。兵は赤い暖簾を潜ると言った。
 「激辛ラーメン一丁。深海で」
 月一の苦行だ。兵はいつも勝てない戦いに挑む挑戦者だった。
 
 注7 原文で「Omnibus viis Romam pervenitur.」ともされるが、19世紀の詩人ラ=フォンテーヌの『寓話』に出て来る言葉「Tous les chemins mènent à Rome.」が元とされる。
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード15

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