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グリム・リーパーによるレクィエム

 アリスは夢を見ていた。ここは教会、墓地か。
 「Dies iræ, dies illa.」(怒りの日、その日は)(注81始)
 黒衣の男、グリム・リーパーが歌っている。死者のためのミサだ。
 「solvet sæclum in favilla:」(世界を灰塵に帰する)
 独りで歌っているのに、合唱になっている。ハーモニーだ。
 「teste David cum Sibylla.」(ダヴィデ王と巫女シビラが証言したように)
 全て韻を踏んでいる。壮大な音楽も聞こえる。アマデウスか?
 「Quantus tremor est futurus,」(どれほど震える事だろうか)
 アリスの父が頭を抱えて震えている。何か叫んでいる。
 「quando judex est venturus,」(裁く者が来た時)
 グリム・リーパーは歌いながら、鎌を構える。
 「cuncta stricte discussurus.」(かの者は全てを厳しく裁く)
 血もなく、父の首が落ちた。虚ろな目で転がる。
 だがそれは急速に色を失って、灰色になり、崩れて、風で飛んで行った。
 
 アリスは悲鳴と共に目を覚ました。過呼吸になる。一体何が起きている?父が心配になったので、大学には行かず、オフィスに向かった。父はカルフォルニアの州知事をやっている。リベラルだ。ブルーステートだ。日本の東京都と都市同盟している。
 「……ですから、地球温暖化は待ったなしです。あらゆる領域で今すぐ脱炭素化を進めないといけない。そうしないと極地の氷河が溶けて、海面が上昇し、低地が沈みます。ぜひとも温暖化対策で、予算の増額をお願い致します」
 そのロビイストは、オフィスで熱心に州知事を説得していた。
 「分かった。温暖化対策は大事だ。委員会に回そう。彼らがOKならOKだ」
 アリスの父は笑顔で、ロビイストを送り出した。だが入れ違いで別の者が来た。
 「……州知事、地球温暖化は真っ赤な嘘です。全て仮定の物語に過ぎない。データは選ばれ、最初から結論が決まっている。これは科学ではない。むしろ政治です。この脱炭素の最終的な勝利者は、大陸です。これは大陸が仕掛けた超限戦です。ご再考を!」
 「分かった。確認は大切だ。専門家を集めて、第三者検証をやろう。君が座長だ」
 アリスの父は笑顔で、別の者を送り出した。アリスはぽかんとした。だがまた来た。
 「……お薬とお注射は、全人類で取り組むべき問題です。州からも予算を出して、お薬とお注射を運営するNGOを支援すべきです。あまねく全人類に、お薬と注射を平等に行き渡らせ、健康の不平等を撲滅しましょう!」
 そのロビイストは、オフィスで熱心に州知事を説得していた。
 「分かった。お薬とお注射は大切だ。委員会に回そう。彼らがOKならOKだ」
 アリスの父は笑顔で、ロビイストを送り出した。だが入れ違いで別の者が来た。
 「……お薬とお注射は大問題です。DNAが入っている事が分かりました。直ちに今すぐ止めるべきです。製造元と連絡を取って、州を上げて、調査に取り組んで下さい。さもないと、遺伝子組み換え人間が、とんでもない数で誕生してしまいます!」
 「分かった。確認は大切だ。専門家を集めて、第三者検証をやろう。君が座長だ」
 アリスの父は笑顔で、別の者を送り出した。アリスは黙って見ていた。
 「……州知事、人工中絶は絶対に維持して下さい。My body my choiceです」
 その女性ロビイストは、オフィスに入ると、熱心に州知事を説得していた。
 「分かった。人工中絶は大事だ。州知事からも現状維持を宣言しよう」
 アリスの父は笑顔で、女性ロビイストを送り出した。だが入れ違いでシスターが来た。
 「……人工中絶は神の摂理に反します。天国から生まれて来る人たちが困っています」
 「分かった。信仰は大切だ。日曜日、私も教会に行って、共に祈ろう」
 アリスの父は笑顔で、シスターを送り出した。アリスは黙って見ていた。
 「……レインボー!レインボー!レインボー!」
 そのセクシー?な怪人は、オフィスに入るなり、二人の前をなまめかしく練り歩いた。州知事は微笑みを浮かべて、その様子を暖かく見守っている。じきに立ち去った。
 「……LGBTQは地獄行きです。旧約のソドムとゴモラです」
 その神父は、オフィスに入ると、州知事に訴えた。アリスの父は言った。
 「分かった。レクィエムは大切だ。日曜日、私も教会に行って、共に祈ろう」
 今日の陳情者は、これで全部のようだった。州知事は満足して、椅子に座っている。
 「……お父さん、なぜどちらも応援するの?」
 アリスは理解できない。どちらか一方を推すなら理解できる。なぜ両方推すのか?
 「大事な有権者だからね。どちらも応援するよ。私は彼らの勝利を願っている」
 州知事は、本気でそう言っていた。アリスは理解できない。不安になってきた。
 「……彼らはお互い正反対の事を言っているよ。両方応援する事は矛盾してない?」
 州知事は大きな椅子に座って、ゆったりとリクライニングした。
 「私は専門家ではないから、どちらが正しいか分からない。判断できない」
 アリスは沈黙した。父の次の言葉を待つ。
 「だから、どちらも応援する。そうすれば、少なくとも、私は絶対に負けない。そのための応援であり、そのための投資だ。無論、優勢な方を推す事はあるがね」
 「……つまり、勝った方につくという事?」
 「それがゲームというものだよ。アリス。胴元をやれば絶対に負けない。そしてゲームの数が多ければ多いほど、政治が盛り上がる。大いに争ってくれたまえ。ハハハ!」
 「……そこに正義は?真実はどうなるの?」
 アリスは訴えた。彼女は美を追求しているが、正義もあると思っている。
 「私は政治家だ。司法も科学も、専門ではない」
 「……じゃあ、何を専門としているの?」
 アリスの父は笑った。これほど父の笑顔が、空虚に感じた事はない。
 「強いて言うなら、私は皆の願いを叶える者だよ。私は本気で皆の願いを叶えたい。だから政治家になった。そして現に、こうやって、なるべく多くの人の願いを聞いている。その中で、実現する願いもあるだろう。潰(つい)える願いもあるだろう。全て平等だ」
 ちょっと恐ろしくなってきた。こんな事をやっていたら、世界は滅茶苦茶になる。
 「……たとえ、お互い矛盾があったとしても?」
 「それが政治というものだよ。アリス。私は世間を相手にしている」
 これは一種のモンスターだろう。一切自分は傷付かず、世の高みに登ろうとしている。
 「……何だか、地球温暖化の人も、そうでない人も、可哀想になってきた」
 お薬とお注射も、人工中絶も、LGBTQもだ。だが州知事は笑った。
 「それは考え過ぎだよ。アリス。私は皆の願いを最も平等に聞いている。善行だ」
 果たしてそうだろうか。アリスは無言でオフィスを出た。後ろから声がかかる。
 「アリス。私は善悪の彼岸を歩く男だよ。あらゆる善悪を止揚(しよう)し、調停する」
 いや、それは違う。これはただの三流魔王だ。幻滅した。父がこんな人だったなんて。
 
 「……Confutatis maledictis,」(黙らされ、呪われた者たちに)
 グリム・リーパーは歌っていた。また教会だ。レクィエムだ。葬式だ。
 「flammis acribus addictis,……」(激しい業火によって、判決が下され)
 アリスは引き続き、夢を見ている。止まらない。

 「……de poenis inferni et de profundo lacu.」(地獄の罰と底知れぬ深淵から)
 不意に眼前に、地の底が見えた。コールタールの黒沼と業火が燃え盛る。
 「Libera eas de ore leonis,」(彼らをライオンの口から解き放ち)
 そこでは地獄の獣が、大きく真っ赤な口を開いて待ち構えていた。 
 「ne absorbeat eas tartarus,」(タルタルスが彼らを飲み込んでしまいませんように)
 底知れぬ深淵に堕ちて逝った人たちが、逃れようともがいている。
 「ne cadant in obscurum.」(彼らが暗闇に落ちてしまいませんように)
 現代の科学者、医者、抗議者、少数者、そして政治家だ。皆纏めて、ざーっとタルタルスに堕ちて逝く。止まらない。そして地の底は閉じた。アリスは夢の中を彷徨う。
 
 「……Liber scriptus proferetur,」(書物がさしだされる)
 グリム・リーパーの手に、一冊の書があった。その人の人生の記録が書かれている。
 「in quo totum continetur,」(すべてのことが書き記され)
 それはエジプトの神話では、死者の書と呼ばれ、心臓が天秤にかけられる。
 「unde mundus judicetur.」(この世のすべてを裁くための書物が)
 それは仏教では、閻魔帳と言われ、照魔の鏡で悪行が暴かれる。
 「Judex ergo cum sedebit,」(審判者がその座に着く時)
 カーテンが引かれていて、顔が見えない。だが裁定者がいる。
 「quidquid latet, apparebit.」(隠されていたことのすべては明らかにされ)
 そこでは人生の法廷が開かれ、善悪のバランスシートが展開される。公平だ。
 「Nil inultum remanebit.……」(罰せられずに残る者は一人もいない)
 そして全ての罪人は、与えられた永遠の命が、そのまま良心の責め苦となった。
  
 カルフォルニアの空は暗かった。異様な雲が浮いている。渦巻状でオレンジ色の雲だ。異世界に通じる扉のようにも見える。科学者たちは、トルコの地震雲と同じだと言っていた。州知事のオフィスに、鎌を持った黒衣の男がいた。グリム・リーパーだ。
 「汝、神に造られし被造物、人なり。汝、神を愛すべし、敬うべし」
 アリスの父は、金縛りにあったかのように動けない。叫んでいる。あがいている。
 「なれど神を愛せざる時、汝、人たる資格なし。土に還れ」
 その後は、夢で見た通りの展開となった。物陰から見ていたアリスが姿を現す。
 「……あなたは何者?神様の御使い?」
 振り返ったグリム・リーパーは、異様な雲を指差した。どんどん数が増えて行く。
 「全ては遅過ぎた……dooms day(終末の日)だ」

 「Dies iræ, dies illa.」(怒りの日、その日は)
 天上の歌声だ。グリム・リーパーによるレクィエムだ。これは一種のお経だ。
 「solvet sæclum in favilla:」(世界を灰塵に帰する)(注81終)
 アリスはただ手を合わせて、跪いた。光が射す。もう祈るしかない。祈るしか!

注81 カトリックの『レクィエム』(死者のためのミサ)典礼文から引用。合唱曲としては無数にあり、同じ文言だが、音楽としての『レクィエム』は、歌詞が変わる事もある。

                                   『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード105

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