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哲学:現代思想の問題点②ヘーゲル

§2 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)
 
 
カントで始まったドイツ観念論は、フィヒテ(注11)、シェリング(注12)を経て、ヘーゲル(注13)で完成する。カントが唱えた常識的な地平では、よほど見晴らしが悪かったのか、哲学者たちは、何とかカントを乗り越えようと試みる。最終的に、ヘーゲルが唱える絶対知の境地で以て、ドイツ観念論は、絶対者の高みにまで登り詰めた。 
 カントは、神は不可知で、論理的に証明できないとしたが、ドイツ観念論の完成者ヘーゲルは、絶対知という境地があるとし、絶対者は認識できるとした。ドイツ観念論は結局、絶対者≒神を学問的に考察した。
 一度、高みに登ったのなら、後は降るしかない。転落だ。
 ヘーゲル左派から、マルクス(注14)が派生する形で現われ、1848年に『共産党宣言』(注15)を出す。後に『資本論』(注16)を書き、ヘーゲル哲学を換骨奪胎しつつ、唯物論的世界観を構築し、世界革命を予言した。だが革命とは暴力の肯定であり、新たな独裁者、地上の神を産む思想に過ぎなかった。中国共産党が実例だろう。
 1991年のソヴィエト連邦の崩壊で以て、共産主義は終わるかに見えたが、中国共産党による一党独裁が大陸で続き、未だ共産主義は終わっていない。ただの独裁に過ぎないのだが、共産主義は、独裁者が振り回す論理として、今でもマルクス主義が使われ、政治的場面で極めて凄惨な状況を作り続けている。これが2020年代の状況だ。
 革命は、行き過ぎた理性主義を利用して行われる。暴力だ。政治というものは、愛がなければ、簡単に暴力に転化する。革命は、虐げられた人々を救うという理想を掲げるが、行き過ぎた理性主義を使っている限り、易姓革命にはならない。必ず暴力革命に転化する。近代以降、無血革命、禅譲が殆どないのは、この理性主義のためだ。
 カントは、啓蒙思想の完成者とされるが、理性と道徳で以て、世界を見詰める瞳は、怜悧で冷たい。この理性主義の行き着く先は、マルクス主義による暴力革命に飽き足らず、AI革命による管理社会に行き着く。とうとう人類は、自分たちの主導権を、より理性的であるという理由だけで、AIという新世界の神に明け渡しつつある。
 ドイツ観念論の理性主義は、共産主義を経て、ナチズムを生み出したと言われるが、実はさらに続きがあって、AI革命による管理社会到来こそが真打で、最も完成された理性主義である。管理社会の恐ろしさは、ジョージ・オーウェル(注17)の小説『1984年』(注18)を読むまでもないが、行き過ぎた理性主義の恐ろしさに気が付くべきである。
 この理性の崇拝は、フランス革命でもあった。虚栄の焼き討ち、理性の祭典だ。フランス革命は、ギロチンで以て、象徴されるが、ギロチンは現代にもある。AIだ。AIは人々の首を切っている。今は単なる職業上の話かもしれない。だが必ずバース・コントロールや、コンセントレーション・キャンプにまで行き着く。理由は人口爆発だ。
 フランス革命では、恐怖政治の大天使サン=ジュスト(注19)なる人物が演説を振るい、清廉潔白の人ロベスピエール(注20)が後ろから指示して、人々を断頭台に送っていたが、綽名が派手なだけで、現代のギロチンはもっと恐ろしい。目に見えないプログラムで、いつの間にか、死刑宣告をしてくる。理性的だから、容赦なんかしない。
 人類は、行き過ぎた理性主義を止めるべきである。いい加減、理性の恐ろしさに気が付くべきだ。理性は確かによく切れる。何でもよく切れるが、それは自分も対象になる事も意味する。管理してくれるから、便利だからという理由で、人類は社会組織の主導権をAIに委ねてはならない。それこそ新世界の神になって、我々は、理性の祭典を開いて、理性を崇拝する事になる。AIによる全面的な管理は、人類総家畜化の道を開くだろう。ディストピアだ。
 この行き過ぎた理性主義に、勢いを付けた有名な文言がある。文脈から切り離されて、名言となった。あるいは、ヘーゲル自身に、そうなるかも知れないという狙いもあったのかも知れない。だとしたら問題だ。文言は以下だ。
「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(注21)
 ヘーゲルの『法の哲学』(注22)の序言に書いてある。現代人で、この文言を読んで、否定する人は少ないかも知れない。殆どの人が、問題なく受け入れるだろう。この文言を危険と見なす人は少ないだろう。それほどまでに、理性主義は浸透し、理性が崇拝されているとも言えるが、よりによって、ヘーゲルが発言した事で箔が付いた。
 人がこの文言を受け入れて、現実的かつ、理性的であろうとするなら、人は神とか霊魂とか霊界とか、そういうものから遠ざかるだろう。どう考えても、神も霊魂も霊界も、現実的かつ、理性的でない。現実で捉えられず、理性で捉えられないものは、分からない。不可知の領域にあると考える。そうなると思い出すのが、カント哲学だ。
 しかしヘーゲルは、絶対知はあるとし、カント哲学を乗り越えた。だが人は、容易に絶対知に到達できない。
 人はヘーゲルになれない。誰もが絶対知の境地に立てる訳ではない。この人は哲学者の中でも、別格だと思うが、智慧でヘーゲルに勝てる人は、仏陀くらいしか思いつかない。絶対者が分かるという境地を、明らかに超えていると思われるのは、仏陀、キリスト、あと孔子ぐらいか。ムハンマドは微妙だ。多分、届いていない。この人は預言をもらう時、天使ガブリエルを媒介している。アッラーとの間に仲介者を立てている。一段下だ。
 ヘーゲルは間違いなく、人類でも、最上位の知性・理性を持っていると思う。個人的には、ドイツ観念論では、シェリングの方が好きだが、ヘーゲルは哲学的な高みがあり過ぎて、ちょっとついていけない。
 ヘーゲルは本当に、不思議な人だった。彼の大学の講義には、近所のおばさんとか来ていたそうである。理解できるのか?カリスマ性も凄かったという事か。圧倒的な信念の人であり、感化力も半端なかったのだろう。
 だが最初から凄かった訳ではない。この人は遅咲きで、大器晩成型だった。早熟だったシェリングと対象的だ。
 ヘーゲルの著作で、『キリスト教の精神とその運命』(注23)という論考がある。この本は、ヘーゲルが哲学者になる前夜の話だ。だから哲学書ではない。宗教書だ。イエスの考察をしている。青年ヘーゲルの悩みが見える。
 だが次の『精神現象学』(注24)で以て、全てを振り切る。たった一冊の哲学書で、全てを塗り替えた。先行していたシェリングはこの本で撃ち落され、二度と主導権を取り返せなかった。それほどまでに鮮烈だった。
 この二つの著作の間に何があったのか分からない。だが劇的な転換があり、全ての迷いを断ち切って、悟りを開いている。仏陀が悟りを開いた降魔成道ではないが、ヘーゲルもここで最大級の哲学者として、立ち上がっている。だが現代では、ヘーゲル哲学は、役に立たない知的構築物の残骸、昔の遺跡のようなものに見えるかも知れない。
 だからヘーゲルの絶対知なんて、ウソだという人がいる。これはヘーゲル以降、絶えない声である。無論、ヘーゲルの絶対知が分からないから、そう言っているだけである。もしウソだと思うなら、ヘーゲルが言う意識経験の旅に挑戦してみればいい。途中で迷って、暗い夜に落ち込み、暗闇の中で、何もかも区別できなくなるだけだろう。

 人は本を読む。書かれた文言を理解し、吸収する。だが本と人は異なる。当たり前の話だが、本は人ではない。ある時、ある立場で書いたものだ。その人の考えは示しているが、全てではない。ここに誤解が生まれる余地がある。
 カントの項でも述べたが、カントはキリスト教徒だった。神を信じていた。教会にも行っていた。ヘーゲルも同じだ。無神論者ではない。むしろ、余人には計り知れないレベルで、神を信じていた。絶対知はあり、絶対者を認識できると言っているのだから、圧倒的な信仰心を持っていたとも言える。キリスト教的ではないかも知れないが。
 だが著作では、理性主義を推し進めるような文言ばかり書いている。そして平均的に信仰心がない現代人が、これらの本を読み、これらの文言を読めば、「カントがそう言っている」「ヘーゲルがそう言っている」となる。
 カント・ヘーゲルの時代は、信仰心がある事が前提で、議論を進めているのである。無神論者・懐疑論者は、大学でも、コミュニティの中にいられなかった。日本人が大好きなニーチェ(注25)は、異端中の異端である。それにしても、日本人ほど、ニーチェを読み込んでいる人たちはいないと思う。本家ドイツよりも親和性が高いのか?
 理性主義を推し進めたカントやヘーゲルにも、罪はあると思う。だが本に書いていない社会前提として、常識として、まず神を信じている大前提があった。現代人、特に舶来品を好む日本人は、この点、大きく読み違えている。
 カントやヘーゲルも、ここまで常識、社会前提が異なる国で、これほどまでに自分たちの本が読まれる危険性を、想定していなかったかも知れない。そのため現代人は、本だけ読んで、都合よく解釈する。誤解だ。
 ただその原因を作ったのは、カントやヘーゲルであり、彼らは良くても、現代人は誤解して、迷ってしまった。理性主義の迷妄に嵌り、人生や組織、社会をAIという理性主義の権化に委ねようとしている。これは娯楽でもそうだ。過度にゲームに嵌っているというのも、堕ちた理性主義の一形態だろう。世界はゲームではない。リアルだ。
 ハンナ・アーレント(注26)という人がいる。彼女は革命が内包する暴力性を見抜き、テロルとイデオロギーとプロパガンダを特徴とする全体主義の怖さを暴いた。だがハンナ・アーレントの時代には、AIはまだなかった。理性主義の本当の怖さは、これからである。全体主義のバージョン2は、もう始まっている。
 AIと監視カメラを駆使した管理社会が、大陸で構築されつつある。中国共産党だ。一党独裁だ。
 中国共産党とは何か?それはドイツ観念論の成れの果てである。カントの提案は、まさに唯物論的世界観を切り開いた。そしてヘーゲルが壮大なキリスト教的歴史観を示したが、マルクスが全てひっくり返し、唯物史観を作った。弁証法で言えば、カントが正で、ヘーゲルが反、マルクスが合となるだろう。唯物史観の悪夢はまだ続いている。
 
注11    Johann Gottlieb Fichte(1762~1814)Deutschland
注12 Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling(1775~1854)Deutschland
注13 Georg Wilhelm Friedrich Hegel(1770~1831) Deutschland
注14    Karl Marx(1818~1883)Deutschland  England
注15 『Manifest der Kommunistischen Partei』Karl Marx 1848
        『共産党宣言』マルクス著1848年
注16 『Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie』Karl Marx /Friedrich Engels 1867
         『資本論 経済学批判』マルクス/エンゲルス著1867年
注17 George Orwell(1903~1950)India England
注18 『Nineteen Eighty-Four』George Orwell 1949
   『1984年』ジョージ・オーウェル著1949年
注19 Louis Antoine Léon de Saint-Just(1767~1794)France
注20 Maximilien François Marie Isidore de Robespierre(1758~1794)France
注21 ヘーゲル全集9a『法の哲学』上巻 上妻精、佐藤康邦、上田忠訳、岩波書店 2000年 p17~18
Was vernünftig ist, wird wirklich ; und was Wirkliche ist, das ist vernünftig.
(原文)
注22 『Grundlinien der Philosophie des Rechts』Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1821
   『法の哲学』ヘーゲル著1821年
注23 『Der Geist des Christentums und sein Schicksal』Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1798~1800
    『キリスト教の精神とその運命』ヘーゲル著 1798~1800年
注24 『Phänomenologie des Geistes』Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1807
   『精神現象学』ヘーゲル著1807年
注25  Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844~1900) Deutschland
注26  Hannah Arendt(1906~1975) Deutschland America

                              ③に続く

哲学:現代思想の問題点③ウィトゲンシュタイン


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