ミシシッピ州の新法律とラブホテルへの憧憬

 先日、友人と名画座の早稲田松竹に映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を見に行った。この映画はアメリカの伝説的ヒップホップグループN.W.A.の伝記的映画で、ヒップホップに疎い私でも非常に楽しむことができた。それでまんまと影響を受けた私と友人は、すぐに書店で第一特集「ニッポンのラップ」の月刊誌「サイゾー」6月号を購入。「サイゾー」を読んでいると、連載『町山智浩の映画でわかるアメリカがわかる』(同号の題材は『ズートピア』)中のこんな一文が目に留まった。

最近ではミシシッピ州で、同性のカップルへのサービスを拒否する権利を認める州法が立法された。

(「サイゾー」2016年6月号 157P 『町山智浩の映画でわかるアメリカがわかる』より)

 先日もKAI-YOU.netでカミングアウトじみた記事(「同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って」)を書いたばかりなので、「またそのネタか」と思う向きもあるかもしれないが、本稿の内容は全くの別物なのでご容赦を。

 閑話休題。私は寡聞にしてこの法案についてよく知らなかったので、少し調べてみた。なんでも、今年の4月に成立したこのアメリカ・ミシシッピ州の州法は、“LGBTへのサービス提供を州内の事業者は拒否できる”というものらしい。【参考:『ミシシッピ州で「反LGBT法」成立、広範な差別が合法に』(ニューズウィーク日本版)】

 ただ、別に本稿では、同性愛者という“私”の立場から同法のことを書こうというわけではない。ここからは、個人的でくだらないことを書き連ねていく。

 上記のニュースを見て、もしかしたら同法に関して「差別なんて許せない!」と憤っている方も(反対に称揚する方も)いるかもしれないが、私個人としては「そういえば、よくラブホテルで入店拒否されたな~」と、昔を思い返した次第である。もちろん(でもないけど)、それは日本での話だ。

 私の経験では、“普通の”ラブホであれば、まずゲイのカップルは入れない。むしろ同性愛者がラブホを使いたかったら、「ゲイのカップルでも入れる」という“希少な”ラブホを探さなくてはならない。ゲイタウンに通う人であれば口コミの情報を聞くだろうし、最近ではネット検索も有効だ。私もラブホ検索のサービスで「同性同士OK」の項目にチェックを入れて検索した覚えがある。

 もしそうした下調べもなしにラブホ街の適当なホテルに飛び込んでみても、たいていフロントで止められるのがオチだ。モニターを見て部屋を選ぶ形式のラブホでも奥から従業員が出てきて止められたりする。その時の空気といったら、本当に気まずいものがある。相手とも、断りに来た従業員とも……。

 同性同士の利用を拒否する理由としては、「違法な密会や薬物授受といった犯罪が行われるかもしれない」「行為の性質上、後片付けが面倒なほど汚されるかもしれない」というのが代表的だ。これらは男女が利用しても起こりうるはずだが、男性同士のほうがリスク係数が高いとみなされているようだ。確かにゲイ文化の一部にドラッグカルチャーはあるし、後者についても否定はできない(しかし、いわゆる“バニラ”という、排泄器官を使わない行為もゲイの中では一般的だ)。なので、ラブホ側が男性同士の利用を断ることになんの合理性もない、とは言わない。

 ただ、私はラブホテルが好きだ。

「なぜラブホが好きなのか?」と問われると、「あのラブホの部屋自体が発している、『いや、別にエロいことをするのが目的ではなく、ただの部屋ですけど?』みたいな雰囲気が好きだ」と答えている。無味無臭を装っているというか、ラブホの部屋という空間が“空っぽ”に感じる。気取っていうのであれば、とても“ポストモダン”的に思える。大きな物語がなくなってしまったという“ポストモダン”。物語性もなく、機能性を持った構造物だけがある空間。入室者の高ぶる情動やベッドの上でのピロートークに、「我関せず」という態度を決め込んでいる。

 私の中でラブホとポストモダンが結びついた時、何かの参考になるかと思い、まさにラブホを舞台にした小説『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収の短編「三月の5日間」を再読してみた。そこに上記の感覚をまさに言い表している文章があったので、以下に引用する。

ラブホテルのベッドのリネンの、人なつこさのない感じを、僕は背中や特に手のひらで触っていた。これみよがしに洗いざらしの、ぱりぱりしたこのリネンの感じには、人間がセックスをしたりすることに対する、嫌悪や軽侮が示されている気が、僕にはする。しかもそのことを僕たちに対して隠そうとするつもりが、そこにはまったくない。むしろ開き直って、それを剥き出しに見せている感じがする。
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(岡田利規/新潮社)45Pより

 私はその感じに、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。

 最近では「ラブホで女子会」なんていうのがメディアで取り上げられ、ラブホテル評論家やラブホテル研究者が登場するなど、ラブホ自体に注目が集まっている。女子会で使えるようにフードが充実していたり、忍者屋敷やリゾートといったさまざまなコンセプトを打ち出したホテルも多い。

 でも、私はそういったラブホに入ったことがない。そもそも「ゲイでも入れる」“希少な”ラブホは、大体が客足に悩んでいるような設備の古いホテルなのだ。客が少ないから、ゲイであろうと大事なお客さんになるという理屈だ。必然、私がこれまで入ったことのある(入れた)ラブホは、大きなのっぽの古時計よろしく”今はもう動かない”回転ベッドがあるようなボロい老舗だったり、“安っぽいラグジュアリー感”という語義矛盾の表現がしっくりくる量産型のラブホばかりだった。

 先に挙げたコンセプト・ラブホなんて、私にはとてつもなく”空っぽ”のように思える。その場が持つ文脈や歴史(物語)と断絶し、ビルの一部屋に忍者屋敷やリゾートを模した空間を作り出す。そこには”夢の国”の何百分の一くらい薄っぺらな物語性しかない(そういえば、夢の国にもやはり男性同士というのが気後れすることもあって、デートで行ったことはない)。ぜひ一度、その空虚な空間に入ってみたい、と思う。でも、私は入室することを断られてしまう。

 もしかしたら、ここまで読んで「ラブホ空間を体験したいなら、理由を話して異性の友達と行けばいいじゃないか」と考える読者もいるかもしれない。しかし、ラブホ空間では実際にそこで”して”みないことには、やはり先ほど私が言った魅力を感じることは出来ない、と考えている。これは「それっぽく小難しげなことを言っとけば誤魔化せる」みたいなエクスキューズではなく、半分以上本気だ。多分、本当に「したい」と思っていないと、その”空っぽ”な空間との距離を感じられないはずだろうから。

 少し横道の話を。「都会は流動的で田舎は閉鎖的だから、都会のほうがゲイに寛容で田舎のほうが否定的」という一般論があって、実際にそういった面は大きいと思う。ただ、郊外などの場合、車で行って車から部屋に直行するスタイルのラブホも珍しくない。このスタイルだと男性同士でもすんなりと入室することができて、私の経験上、利用拒否されることはなかった(もし拒否された経験がある人がいらしたら、教えていただきたい)。郊外や田舎の車文化と結びついたアーキテクチャが自由を担保しているというのは、個人的になかなか興味深い話だ。

 さて、ここまで長々と書いてきたが、これはあくまでも私の(悲しいかな?)数少ない体験を元にした話だ。なので、もしかしたら最近は同性同士でも入れるコンセプト・ラブホがいっぱいあったりするのかもしれない。

 ただ少なくとも、滾る20代を同性愛者として過ごした私にとって、“普通の”ラブホにはいまだに憧れがある。だから、”差別”がどーのといった大義とは関係なく、「面白そうなラブホに、私も普通に入ることが出来たら嬉しいなぁ」と思う。

――この記事を数日かけてちまちま書いていて、当初は上段落で記事を締める予定だった。しかし6月12日、フロリダ州のゲイナイトでアメリカ史上最悪の銃撃事件が起こり、100人以上が死傷した。容疑者(6月13日時点)の信仰や個人について、テロとの関わりなどのさまざまな情報が流れているが、そのことについては今は何も言えない。ただ、事件後に容疑者の父親が「息子は数カ月前にマイアミで男性同士がキスしているのを見て憤っていた」と話していたという【参考:米国史上最悪の銃撃事件に フロリダ乱射、50人死亡(朝日新聞)】。「ラブホに入れない」どころか、私たちが普通にキスすることさえ許されない、そんな世界だったら、俺は「くそくらえ」って思う。

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