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“OLAibi - 聴こえない馬 - 展“

先日Dommuneで行われたKOM_Iさんとのセッションでは、古代から私たちのDNAに刻まれているリズムの記憶と、人間が生み出してきたテクノロジーを融合させたような、もの凄いパフォーマンスをされていたOLAibiさん。

OLAibiさんのパフォーマンスを見るのはその時が初めてだったのですが、ドラム、声、電子楽器、それら全てを打楽器のように操り融合して表現されるような音に、身体、心、魂が震えるような感覚がありました。

そのOLAibiさんの初個展「聴こえない馬 」展が六本木のClear Gallery Tokyoで開催されているということで、「これは行かなきゃ!」と思い、行ってきました。

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森に移り住み、年月をかけ森を観察し、音を録り続けるOLAibiさんがかねてより惹かれていた「泥」に入り過ごした姿を捉えた、松原博子さんによる写真。

泥を身体に纏うOLAibiさんの身体に描かれるミロコマチコさんの文様。

OLAibiさんにとっての自然から採取したホワイトノイズを「栽培」し、紡いだ音のインスタレーション。

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エントランスで頂いたパンフレットに紡がれたOLAibiさんのこれらの言葉は、熊、猪、狸、鹿、猿が日常で現れる場所に住んでいながら、新宿のような大都市へヨガを教えに行ったりといった、一見対照的に見えるような場所を日々行き来している自分の今のライフスタイルの中で感じていたことでもあり、またその根本の物事の捉え方など、共感する部分がとても多かったです。

“生まれてからの経験や体験からのイメージを
いったんホワイトノイズの土壌に乗せて平等にし、自然物と人工物を分ける境界線から自由になること”

これは日々暮らししている中でよく感じることで、自然物、人工物だけでなく例えば、

善と悪
清いと汚い
上と下
意味のあるものと無いもの

といった境界線を作って、あらゆる物事を二つに分ける捉え方が過剰に行き過ぎてバランスが崩れると、何かしらのトラブルが生まれるように感じます。

でも、私たちが暮らす宇宙にはそんな概念はそもそもなくて、決めて名前を付けて分けたのは人間。もともと何も分かれてない。

自分はヨガ講師をしていますが、いくつかあるヨガの経典のうち、サーンキャ哲学という二元論的思考の哲学が背景にあるヨーガ・スートラという経典には、「非暴力」という倫理規定があったりしますが、完全な「非暴力」というのはあり得ないと自分的には思います。「非暴力」というのも人間が決めた概念。

なぜなら例えば、自分たちの体内では私たちの意図と関係なく、細胞が闘っていて、菌を殺したりして、バランスを保っているから健康でいられるわけで。私たちは生きている以上、一般的にいう「暴力」とは無関係でいられません。

「暴力」「非暴力」という対立構造のどちらかではなく、必要以上の殺生や傷つけることをしないこと、つまり過剰にそれをしないことがむしろ大事なことだと思います。

私たちの身体もそうですが、畑や山や動物などの様子をみていると、当たり前のように他の生物たちはそれをしていて、実際に、何かが過剰になってバランスが崩れているときに何かしらトラブルが起きることを目にすることからもそれは感じます。

でも、人間が作ったそういう概念すらも良いも悪いもなくて必要だからできたのだと思うから、もし何かを二つに分けるのなら、どちらかに偏りすぎないこと。大事なのはバランスかなって。

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天井に円形に約8個設置されている場所が2つあって、その他にも10個くらい様々な場所に配置されているスピーカーからは、それぞれ違うタイミングでそれぞれ違う音が流れていたような感覚がして、それらが混じり合って生み出されるハーモニーと、画面で見るのとは全然違う、大判の写真によって生み出される、目を開けていても閉じても瞑想ができるような空間の中で、改めてそんなことを感じていました。

音が鳴っているのに静かな感覚になる空間がとても心地良く、1時間くらい滞在しましたが、閉店時間でなければまだ数時間余裕でいれそうでした。

行ってとても良かったです。

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