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844/1096【地球人】好きも嫌いも一時の都合

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で844日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

844日目。1月も半ばとなってしまった!2021年の48週間のうちの2週間がもう過ぎてしまった。人の一生のなんと短いことか。短時間の人生、ずっと本番、ずっと表現の時間。…と、そうとばかり考えたら、これはまったく、狂気の沙汰だ…!生きるってなんて劇的なことなのだろう。

でも、人生はただおまかせコースで行けばいいのだと思うととても気楽だ。わたしは、われらの人生も何もかもが、なるようになるのだと思って(しまって)いる。気楽で嬉しい。劇的なこの地球人人生にも鼻歌が出るってものよ。

わたしは、この世界がどんなところなのかについて、みな自分の好きなように信じてよいのだと思う。外に正解を求めるのは、ある意味で不自由だ…自分の好きなように信じられる人を、自由だと思う。(そして、外に正解を求めている人も、外に正解があるという風に信じていて、それも自分の好きなように信じているということも言えますね)

この毎日投稿の更新はすっかり安定期に入っている感じがしていて、更新にはほとんど不安がなくなっているし、自分でも書ききることを目標に突き進む所存です。けれども、やはりなにかあればいつ途切れるやも知れぬもの。

でも、いいのいいの、そのときはそうなっているのだから。大抵のことは気楽に考えたほうがずっとよく流れていくものでございあす。大丈夫、大丈夫。大丈夫でしかないのだもの、今日も気楽にいきましょう!やァー!

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みなさんには、嫌いな人が居ますか。わたしには、居るような居ないような、という感じなのです。好きな人についても同じで、居るような、居ないような。どうしてかというと、好き嫌いというのは、単にその相手との関係性や相手の状態が、自分にとって都合がいいかどうか、気分がいいかどうか、だけだと思うのです。つまり、相手のことが好きだとか嫌いだとか言うことが、できないと思うからです。

どんな人も、その人にはその人なりの都合があって今の状態にあることを思うと、その人を好きだ、嫌いだ、とは言えない感覚になります。その人なりの都合というのは、生まれた環境、その人のご両親の性格や状態、育つ間の出来事によるものなのだと思うと、にんともかんとも…しゃあないよなあ、と思ってしまいます。年をとったのかしらねえ…

なので、付き合いのある人というのは、実は、都合がいいから気分がいいから付き合っているだけで、その付き合いが好きなだけで、その人を好きだとか嫌いだとかいうことではないのだと思うのです。

多くの人がそうであるように、わたしも地球人のことは、地球人というだけでベースとしては愛しており、愛しく憐れなものだと思います。
二足歩行のわれらときたら、かっこいいし美しいし、面白いしなんでも創れるし、本当になんとすごいものかなあ!と思います。子地球人(つまり赤ちゃん)はみんな異常な可愛らしさですし、その赤ちゃんが育ち成地球人になっても、やはり可愛いさは変わらず…素晴らしい音楽を作ったり、楽器を発明して演奏したり、宇宙に行ける乗り物を作ってしまったりする、ワンダフルな生物です。その様子を天界から眺めたらと想像すると、ほ、ほら…もうもう、猛烈に可愛いのです…ぐ、ぐぎゃあ~!!

この感覚が、わたしが意識のことを学ぶようになってから目覚めた感覚のうち、自分にとって最も良かったものだと思います。

われらの意識構造では、同じものでもただ単に遠くから観察するだけで見え方が変わるということが起こります。遠く遠く、宇宙の果から見たらと想像すると、わたしにとって地球での出来事は『楽園の夢』というふうに見えます。おとぎ話かーい!と突っ込みたくなるようなことばかりじゃないか!!と思ったりします。老化なのかしらねえ、これも…(笑)

もしも温度検知のできるサーモグラフィーようなものを持った自分が、暗い宇宙空間をずーっと何光年も移動しながら旅をしています。あるとき突然、ある一点にものすごい数の温度検知があり、驚愕して近寄ってみたところそれは地球で、たくさんの生き物がそこで共同生活をしているのを見たとしたらどうでしょう…!!お前らどんちゃん騒ぎかーい!と思います。いや真空の宇宙でえっらい楽しそうやなと。いろいろ作って暮らすの、めちゃめちゃオモロそうやないかい!と。

地球人は地球上にいて、地球の素材を使って頭に描いたものを作ってみようとします。そして、あれこれと試して失敗したりします。悔しがったり落ち込んだりしています。そしてまた違う方法でやってみたりして、うまくいくと喜んでいます。それを、あっという間にみんなで使うようになります。アイデアを取られると怒ります。フゥ…これはもうなんじゃろね。「可愛い」を極めているのでしょうか。地球人の活動はそもそも、「生きたいな」「嬉しい思いがしたい」「自分を守らなくちゃ」「誰かを守らなくちゃ」「死ぬの怖い」「安全にいこう」「動物かわいい植物可愛い」「便利にしたいな」などなどの思いを持って生きています。その思いがまず可愛いすぎかよ!です。愛さずにいられないニクいやつ、それがわれら地球人…!!

ところが、当の地球人はいつもこう言っています。寂しいんです、人間なんて汚れた生き物です、人生とはなんと退屈なものだろうetc…それもわかる。もちろんこの中にいたら中にいたで、そう思ったりするものなのです。それが地球人のリアルです。それをわたしたちは知っている。

けれども、その当の地球人であるわれらは、ある観点から見れば自分たちのことを楽しそうだな、いいものだな、と思えるのです。同じこの地球の状況を見るのだとしても、このくらい離れた視点から見ると、普段の感じとはまったく違う評価を持つのですね。

こうして、一度われわれ地球人の活動を随分と離れた観点から良き方に眺めてみると、貴重で微笑ましく、素晴らしいものに見ることができます。これはひとつの訓練のようなものだとも思います。続けることで、この観点から見ることが容易になり、慣れて早くなり、強化されます。

そうすると、まずは「いいないいな、人間っていいな」的な感覚になります。地球人っていいよね。好きか嫌いかは置いておいたとしても、地球人の存在って面白い現象だよね。という感覚。遠い観点から自分たちを見るということの反復により、このおおらかで冷静な感覚が自然と備わってきます。これが、もってみるとなかなかに、わたしたちを良い気分にさせてくれるものなのです。

その視点をもって、好きだと思う人や嫌いだと思う人を見てみる。この人物も地球人だなあと思ってみてください。そしてその人をサーモグラフィーで見ているのだと想像してみるのです。その人のいるところが、赤赤と燃えています。生きている。実際にこの地球で今このときに生命を持って動いている地球人の存在です。その人物の構造と存在は、宇宙に起こるべくして起こった、貴重で美しくて面白い、奇跡の現象です。わたしたちは果たして本当に、その”生命体”を、好きだったり嫌いだったりしているのでしょうか。ここまで考えてみると、その人物を生み出したお母さんに罪はない、その人物の身体に罪はない、生命に罪はない、と思うのかもしれません。

するとなんだか、その身体その生命に対しての好き嫌いではない、というように思えてきませんか。ただ、その人のある状態について、こちらにとって都合がいいとか悪いとか、気分がいいとか悪いとかいうこと、なのです。

わたしは、相手の都合を思ってみるのが好きです。生まれた環境、生まれたときは純粋だったこと、育った環境、その間に起こった、その人物が歪むに値する出来事…想像しようにも、わたしたちの想像がとても及ばないことがわかります。わたしは、相手の都合を、知り得もしない。相手のことを知らないのです。知っているのは、生きていること。そこしか見ることができません。
それしか見ることができないので、ではその生きた生物の温度のみを感知したと考えたら…それから、その身体が生きようとしていることを思ったら。なんだか、他者のどこを嫌い、どこを好んだとしても、ただまったくこちらの都合でしかないという気がしてきます。相手は素敵な地球人さまです。

こんな風に考えられるとき、わたしたちは自分のことをも同じように見ることができます。自分の特徴のなにかについて、自分にとって都合がいいところばかりを好いて、都合が悪いところを嫌ったりしているだけなのだとわかります。なかなか冷たい対応です。その身体にも生命にも罪はなく、さらにこれまでの環境も出来事もあって今のあなたなのですよね。それをこちらが勝手な都合で裁いているだけです。あなたも素敵な地球人さまなんですよ。

こんな観点から好きな人や嫌いな人に思いを巡らすと、好き・嫌いの概念が形を変えて崩れてきます。そのときわたしたちは自分自身を、好き嫌いに依らずに大切にすることができるのですね。自分を大切にしよう!と考えるというのは、直接的でとても難しく、なかなか成功しないアプローチです。

でも、SFの世界を想像をするのと同じようにイマジネーションを働かせて、まずは地球人を眺める視点、つまり自分が地球人だということを抜け出したところから、地球人を観察する感覚を培ってみてください。遊びのように!

そこに湧いたおおらかで冷静な視点が、地球人を”個”として見る感覚を自然と変化させて、いずれは自分自身へのおおらかさと自意識を超える冷静さをもたらしてくれます。それは、自分への優しさになってくれますよ。自分を愛さなくちゃ、という義務ではなく、こうしてイマジネーションを羽ばたかせるほうがずっと易しいのです。

というわけで今日は、好きな人や嫌いな人への感覚を自然と変えてくれる、心のエクササイズにもなる思索のお誘いでありました。読んでくださったお方が、この週末を優しい気分ですごせますように。

それではまた、明日ね!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)