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大切な人を自殺で亡くして思うこと①

こんにちは。春の陽気の中、みなさんいかがお過ごしですか。
今回は久しぶりの記事が悲しいお知らせとなってしまいますが、お許しください。年初にXでお伝えした通り、昨年の11月に、同居していた私の母が他界しました。

当時はまだ悲しみに暮れていたため、亡くなった事実をお伝えするので精一杯でした。あまりに参っていたため、言葉を考えたくとも頭が停止して働かず、胸に石が詰まったみたいで、すべてにお返事を書くことができませんでした。あれから数ヶ月の間は、かろうじて精神を保って、仕事と家事をしながら生活することしかできませんでした。

コメントをくださった方にお返事ができず、自伝を読んでくださっていた方々にもご心配をおかけしてしまって、大変申し訳ありませんでした。

今日は私と同じような体験をされた方に少しでも慰めになることを祈りながら、それに向けてこの記事で精一杯の努力をしなくては自分に納得がいかないという真剣な思いで、これを書いています。

私の母は、昨年11月の22日に自らの命を絶ちました。遺書を残しての縊死でした。亡くなっている母を発見したのは、私でした。

このときの衝撃とその後の心境の変化をどのように記すのが最良なのか、未熟な自分はそれがわからないまま、これを書いています。もしかすると、ありのままを書くことで、これを読んでおられる同じような体験をされた人にとって辛い記憶を呼び覚ますことになってしまうこともあるかもしれません。それを申し訳なく思います。

私の人格が今よりずっと高かったら、もっと配慮すべきところに配慮してより良く書くことができるのかもしれない。けれども、私は自分が立派に成熟するのを待っていては人生が終わってしまうのだと思い、今の自分にできることをしようと決意しました。

(※この記事では、自殺という言葉を自死と言い換えることはしていません。気分を害する人がいたらすみません。殺という文字を見ることで傷ついてしまう状態の人を、私もお気持ちがわかりますので、とても気の毒に思います。けれども、『自死』と穏やかに表現することが、今自殺を迷いながらこの記事を目にした人にとって、死を受け入れやすいものに感じさせたり、自殺にコミットしやすくしてしまうことをほんの少しでも避けたいという痛切な思いがあり、非常に迷ったのですが、この記事だけは自殺と表記することにしました。どうかお許しください)

近親者や友人など、大事に思ってきた人を自殺で亡くすことは、計り知れない苦しみです。それがいかに過酷なものなのかは、当人にしかわからないものがあります。今この時も、この苦しみから少しも前に進めずにいる人がいるのだとしたら、この記事で少しでも、どうにかお力になれればと切に願っています。

ここでは私が4ヶ月半前に母を自殺で亡くしてからの、悩み尽くした経緯や、立ち直りにつながったことについて、記そうと思います。

今の私はだいぶ元気に暮らしていますが、それは私が母が亡くなる前のように戻ったということではありません。私はいまもまだ、母の死を悼み、悲しんでいます。

母の遺書を発見したとき、私は頭の中がぶっ飛んだようになりました。そのまま思いつく限りの可能性を考えて家の内外を探し回り、屋上で母の姿を見つけました。あまりの事態に声も出ず、無我夢中で飛びついて、死に物狂いで救助を試みました。

このときのことは、記憶が飛び飛びです。自分が正気のギリギリの淵にいたため、誰が自分を動かしているのか、なぜ自分がそのように動いているのかが、自分でわからないほどでした。

それから叫んで娘を呼び、娘が救急を呼んで、救助隊が駆けつけました。彼らはなんとか母を蘇生しようと頑張ってくれました。心臓が再び動いてくれたタイミングで救急に運ばれ、そこから冷え切った救急病棟で約5時間、何に祈ればよいのかもわかりませんでしたが、祈って祈って頼んで頼んで、あらゆる概念にすがりつきました。

自分が死ぬから代わりに母を助けてくれと、神かなにかわからないものに向かって、心の中で何度も何度も絶叫し、髪もはりつくほど汗だくになって懇願しました。

力なき母の手を握ると、母が自分ではなく、私とは別個の人なのだという当たり前のことが突きつけられるようでした。小さいころから見てきた、母らしい、幼心ながらに愛してやまなかった母の手でした。体操着入れを縫っていた手。きんぴらを作っていた手。自分のお母さんと、どうやってこんな形で今生の別れができるものかと思いました。


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