拙著『歴史のなかの大地動乱』の「はじめに」

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の「はじめに」を公開します。
 三,一一の後に地震と火山の研究を始め、実際上、専門を変更しましたが、なかなか成果があがっていません。
 この本は現在、版元品切れになっていますので、「はじめに」を公開し、最後に細かな目次をのせてあります。

はじめにーー地震学と歴史学
 私は二〇一〇年に書いた『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で、『竹取物語』について考えた。その結論は、かぐや姫は火山の女神であり、『竹取物語』はより古い時代の火山神話を物語風に書き直したものではないかという、自分にとっても意外なものとなった。そして、その執筆の中で、この時期の地震・噴火についての文献史料が豊かな内容をもっていること、それにもかかわらず、ほとんど研究が行われていないということを知った。
 この経験によって、地震史料に興味を持ちはじめていたところに、二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震がおきた。その中で、これまで歴史学者が歴史地震の研究を軽視してきたことを認識した私は、地球科学・地震学の基礎勉強から始め、八・九世紀、つまり奈良時代と平安時代の最初期の地震・噴火の史料を読み込んでいった。そして、この時期の地震・噴火を、国家・王権の対応をふくめて説明することは、歴史学者の義務であろうと考えたのである。本書は、その作業を報告し、八・九世紀の地震・噴火の全体像を、できるかぎり分かりやすく説明することを目的としている。
・本書の構成
 そのため、本書は、まず、八・九世紀の地震・噴火を、一つ一つ、その時代背景をふくめて説明していくことにした。第一章「大地動乱の開始」では、七・八世紀、つまりおもに奈良時代の聖武天皇、孝謙女帝など天武直系の天皇の時代、第二章「大地動乱の深化と桓武の遺産」では、九世紀の前半の桓武とその直系の天皇たちの時代の地震・噴火を取り上げた。本論で詳しくみるように、これらの天皇たちの大地震への対応には、この時代の王権の本質にかかわる諸問題が現れている。そして、第三章「陸奥沖海溝津波(貞観津波)と清和天皇」では、おもに八六九年(貞観一一)に陸奥国沖でおきた大地震、陸奥沖海溝津波(貞観津波)について論じた。地震学者によれば、この津波は、三・一一東日本太平洋岸地震とよく似た地震の強さや震源断層をもっていたという。
 私は、本来、平安時代から鎌倉時代の歴史を研究しており、史料編纂所での仕事は京都紫野の大徳寺の禅宗古文書の編纂である。それ故に、奈良時代、平安時代初期の政治史などの説明は、これまでほぼ一人で考えてきたものであって、いわゆる「通説」とはまったく異なるものになっている。ただ地震・噴火という筋にそって論じているので、新奇なわりには、それなりに分かりやすいものになっているのではないかと思う。
 本書でもう一つ注意していただきたいのは、第四章「神話の神々から祟り神へ」で、日本神話の本質について論じていることである。八・九世紀の地震・噴火史料を読んでいると、そこには色濃い神話のイメージが残っていることに気づく。そしてこの時代の地震・噴火史料を正確に読もうとすると、どうしても、日本の神話の読み直しにふみこまざるをえないのである。
 もちろん、神話時代は六世紀には終わっている。そのためもあって、これまで八・九世紀の地震・噴火史料に残る神話意識については注意されないことが多かった。しかし、当時の人々が、激しい地震・噴火について神話の文脈から考えていたことは疑いないと思う。すでに四〇年近く前、歴史家の河音能平が論じたように、この時期の自然災害の激しさの中で、自然的な神話の神々は、自己自身が疫病などの災害を引き起こす「祟り神・疫神」となってしまったことを嘆き、その神格を変容させていった。河音は、この時代の神話の変容について力強く論じており、私は、歴史学は、あらためてこの河音の仕事を受け継ぐ必要があると考えている。
 そして終章「神話からの離脱と東北アジア」は、いわば「神話の時代」から「君が代の時代」へという副題をつけることもできる章で、八・九世紀の大地動乱の時代が東北アジアの中での日本の進路にどのような特徴を付与したかを論じている。実は、八・九世紀の「大地動乱の時代」は日本のみでなく、中国・韓国でも同じであった。さらに、この時代は東北アジアに共通して「温暖化(旱魃)」と「パンデミック」(広域流行病)の時代でもあったというのが、本書の隠れたテーマなので、それとの関係でも読んでいただきたい章である。
・東日本太平洋岸津波と九世紀陸奥沖海溝津波(貞観津波)
 さて、二〇一一年の東日本太平洋岸地震を考える上で、陸奥沖貞観津波をふくむ八・九世紀の地震・噴火について考えることは、地震学や地球科学の立場からいっても重要であるという。
 ここで本論に入る前に、その趣旨を説明しておくと、そもそも、地震学の研究によると、三月一一日東日本太平洋岸地震は、八六九年(貞観一一)に陸奥国沖でおきた地震・津波とよく似た震源の構造をもっていたという。一九八〇年代末から、地質学の研究者たちは、このはるか昔の「貞観地震・津波」の痕跡を大地の中に探りはじめた。東北・北海道には、九一五年の秋田県十和田カルデラの大噴火による火山灰が広く分布しているが、東北大学の箕浦孝治は、その直下に「貞観津波」によって海から運ばれた砂層を発見したのである。そして、引き続く産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターを中心とした研究によって、石巻平野から仙台平野、さらに福島原発のすぐ北の浪江町までの一三〇㌔ほどの広汎な海岸沿いに、九世紀の海岸線から内陸約三㌔の地点まで、貞観津波の痕跡砂層が分布していることが明らかになった。この二㌢から五㌢程度の厚さをもつ砂層は、砂粒の大きさ、そこに含まれる石英、珪藻の種類などによって、海砂であることが確認されている。
 そして、地震学の佐竹健治・宍倉正展などによって、これだけの浸水域をもたらす地震は、大規模なプレート間地震であり、コンピュータ上でシミュレートされた震源域は長さ二〇〇㌔、幅一〇〇㌔以上、ほぼ今回の東日本太平洋岸地震の震源域に相当する領域であることが明らかとなったのは、東日本太平洋岸津波のほぼ三年も前のことであった。実は、私をふくめて、ほとんどの歴史学者がそれを知らなかったのであるが、これは、歴史学の側の重大な責任を示している。
・関東大震災を予測した今村明恒
 さて、地震学の研究の歴史をふり返ると、この「貞観地震」にはじめて注目した地震学者は、創設期の地震学の研究者の一人、今村明恒(一八七〇―一九四八)であった。地震学者の魂を示すといわれる、その曲折の多い生涯は山下文男『地震予知の先駆者 今村明恒の生涯』に描かれているが、今村の人生の画期となったのは、一九〇五年に日本における地震学の最初の概説書『地震学』を発行したことであった。今村は、そこで東京を襲った大地震を一六四九年(慶安二)、一七〇三年(元禄一六)、一八五五年(安政二)と列挙し、この発生間隔からみて、近いうちに大地震の再来を覚悟しなければならないと述べたのである。そして、当時の首都東京のあやうい防災体制を危惧した今村は、その趣旨を雑誌『太陽』にも発表したが、これがセンセーショナルに取り上げられ、今村は、社会不安をあおる「浮説」をふりまくものとされ、不遇の時を送ることとなった。
 しかし、その一八年後、一九二三年に関東大震災が発生する。その震源が今村の予測通り、相模湾海底、相模トラフであったこと、今村が以前から火災による震災の拡大を警告していたことなどによって、今村はいわば時の人となった。今村は、その条件を利用して、防災体制の構築と観測体制の整備に邁進する。そして南海地震の観測のために、観測所の設置に私財を投じたのであるが、しかし、時代は太平洋戦争に突入し、その中で、一九四四年一二月には東南海地震(M七.九)、翌一九四五年一月には三河地震(M六.八)という大地震が連続する。そしてさらに、敗戦後の一九四五年一二月には紀伊半島沖を震源とする大地震(M八.〇)が追い打ちをかけた。今村の努力にもかかわらず、戦争の抑圧と敗戦の混乱の中で、この三つの地震に関するデータには欠落部分が大きく、全体像は未解明なままに終わっていて、現在の研究にも大きな障害となっているという。
 今村は「明治人」らしい真面目な天皇崇拝の心情をもっていたが、戦時体制にはやや批判的で、学者としての本分をまもる処世をつらぬき、戦後、いわゆる皇国史観に対する科学者らしい違和感も表明している。それにもかかわらず、不遇の時期に陸軍大学校で数学を担当して生計をささえたことが仇(あだ)となって、戦後、今村は公職追放となり、恩給も喪失した。今村は、それを甘受したが、敗戦をはさむ三つの東海・南海地震で、確実なだけでも五〇〇〇人近い人々が亡くなったことには無力感をつのらせたようである。今村は、戦後発足した地震予知連絡研究連絡委員会の席上、「自分は地震の予知には深い関心を持ち、一生をその仕事に捧げてきたが、その努力が報いられることはなかった」と述べた。そして、その年一二月二〇日に大著『本邦大地震大観』の口述執筆を終え、力尽きたように、翌年一月元旦に死去したという。
 歴史学者の中にも、日本の文化を守り、学術の将来を切りひらくために、戦争体制の中でも執拗な営為を続けた先輩たちはいる。しかし、一九世紀末から第二次大戦の敗戦後にいたるまで、長く学術と国土の安全のための活動を続けた今村の生涯の記録を読んでいると、学問の分野を越えて粛然とさせられるものがある。
・今村の歴史地震研究
 今村の後、地震科学の発展はめざましいものがあった。今村を含む第二次大戦前の日本の地震学は地球物理学的な方法意識が弱く、それが一九六〇年代における地球科学の革命、プレートテクトニクスの導入において、一〇年の遅れをとる原因になったといわれるようであるが、近年では、プレートテクトニクスに基礎を置く精細な研究が進み、地震の発生のメカニズムは、以前とは異なる精度で明らかになっている。地震学界の外から見ていても、あと一〇年の時があれば、今回の東日本太平洋岸地震の予測まであと一歩というレヴェルまで研究は進んでいたのではないかと思わせるものがある。
 しかし、今村の仕事の強みは、地球科学的な領域よりもむしろ歴史地震に対する深い知識にあった。なにしろ今村は明治の人物であり、前近代日本についての土地勘が鋭く、漢文に強い。そして記憶力が抜群で一九〇四年(明治三七)に刊行された『大日本地震史料』をほとんど暗記していたといい、ちょっと上目で天井をにらむと、昔の大地震の年月日がとっさに口をついて出てくるので聞く者を唖然とさせたという。『大日本地震史料』は当時の段階で及ぶ限りの地震史料の原文を時代順に収録した画期的な史料集であったが、今村は、この『大日本地震史料』の追補・改訂にも指導力を発揮し、一九四〇年の増訂版完成時には「序」を執筆している。今村は、その個性からいっても、歴史地震学の分野の開拓者として地震学における文理融合の先駆者となったということもできるかもしれない。
 ともあれ、東日本太平洋岸地震の発生によって地震学は歴史地震論の再構築をせまられているようにみえる。そして、プレートテクトニクスの分析レヴェルにふさわしい歴史地震論を構築するためには、少なくとも初動においては、地球科学・地震学と歴史学・考古学の学際的研究の位置は大きい。いま、その意味でも、今村の文理融合的な視座をうけつぎ、その仕事を精細もらさず点検することが必要になっているのではないだろうか。実際、地震学の石橋克彦は、今村が、六八四年、一七〇七年、一八五四年の巨大地震が南海・東海連動地震というべき実質をもっていることを認識していたことを高く評価しており、自身の「駿河湾地震説(東海地震説)」は、今村が「六八四年、一七〇七年、一八五四年の大地震が、広域の強震動と津波、御前崎付近・室戸岬・高知平野の地震時地殻変動などから、同じタイプの地震であると考え、地震間の地殻変動も考察して、同型の大地震の再来が近いと予想した」ことを前提としていたと述べている。
・「地震活動の旺盛期」-八・九世紀
 さて、重大なのは、今村が日本列島の地震には「旺盛期」というべきものがあるとしたことである。それは歴史史料によって確認できる限りでは、(1)七世紀末から九世紀末、(2)一六世紀末から一八世紀初頭、(3)一九世紀半ば以降の三つを指摘できるという。そしてこれらの「旺盛期」はかならず「三陸沖に於ける地下大活動」によって代表され、問題の「貞観地震」は最初の「地震活動の旺盛期」を代表するものであるという。
 この論文の発表は一九三六年。四分の三世紀も前のことであるが、これが地震学の立場から貞観地震に注目した最初の発言なのである。念のため、論文の一部を引用すると、「とくに第一期、第二期はその期間あまり長からざるにかかわらず、地震活動が、この間に本邦における地震帯の全系統を少なくも一巡しているようにみえる。これはまったく偶然の結果かもしれないが、しかし各期における活動の原因が広く日本に対して働きつつあった一勢力にありとみる時、斯様(かよう)な現象の起こるのもむしろ自然のように思われる」(傍点筆者)というのである。「広く日本に対して働きつつあった一勢力」というのは、現在でいえば太平洋プレートの沈み込みということであろう。
 ただ、この「七世紀末から九世紀末」に第一の「地震活動の旺盛期」があったという今村説については、火山学の小山真人、早川由起夫の批判がある。この時代には『日本書紀』から『三代実録』にいたる六国史が揃っていて多くの地震が記録されており、これはそれによる見かけの現象に過ぎないというのである。しかし、たしかに一〇世紀は史料の残存状況は悪いものの、それ以降は平安時代史料の量と多様性は相当のものがあり、大地震があったとすれば相当の確度で史料は残ったろう。また平安時代を通じて地震を観測する職務をもった陰陽道や天文道は発展の道を辿っていたから、もし大地震が連続すればより多くの記録・伝承が残っはずである。そもそも、小山・早川の仕事とほぼ同時に、八八七年の仁和地震が南海・東海の連動地震であることが石橋克彦によって史料的に論証されており、さらに近年、八六九年(貞観一一)の貞観地震の規模が津波砂層の調査によって明らかとなった。九世紀に大規模なプレート間地震が重なっていることは否定できないのである。また、早川自身が、八・九世紀に富士を始めとして伊豆弧の火山群の大噴火が連続していることも注意しておきたい。
 そうである以上、これまで今村説がまったく歴史学の視野の外にあったことが重大な問題となる。実は、これまで歴史学の研究者で、八・九世紀の地震・噴火について専門的に研究したのは、東京大学の史料編纂所にいて、同大学の地震研究所の宇佐美龍夫が推進した歴史地震研究に参加した山本武夫のみであった。その地震学との共同研究の中で、山本は『古地震』シリーズ(萩原尊礼編、東京大学出版会)に何本もの基礎的な論文を発表している。これによって八・九世紀の主要な地震については大枠が明らかになっており、本書もそれに依拠して論述をしているのであるが、しかし、山本の本来の専攻は江戸時代の学芸史であり、史料編纂所における所属もそれに対応するものであった。
 そういう中で、さすがの山本も、肝心の「貞観地震」については慎重を期したか、あるいは地震学との共同研究との条件が整わなかったためか、分析を行うことはなかった。そして、山本以降、安田政彦・宮瀧交二・今津勝紀などによる若干の仕事はあったものの、歴史学の側から「貞観地震」についての研究が行われることはなく、それ故に、今村の「八・九世紀、地震活動の旺盛期」説が視野に入れられることはなかったのである。
 もちろん、右にふれた地震研究所と史料編纂所の学際的な協力によって地震史料の蒐集と基礎研究の枠組みが形成されたことの意味は大きく、またこの時代の地震・噴火の研究は、渡辺偉夫、石橋克彦、寒川旭、都司嘉宣、小山真人、早川由起夫、林信太郎など、地震学・火山学の研究者によって営々と行われてきた。
 しかし、三・一一東日本太平洋岸地震を経た現在、学際的な研究が本格的に推進されなければならないことは明らかであろう。これは自身の反省でもあるが、地震学が「貞観津波」の研究によって大津波の危険を明らかにしながら、大多数の歴史学者がそれを知らないなどという事態が、今後あってはならない。
 そもそも日本においては、今村が地震学において実践したような文理融合の方向は、学術体制全体の問題としても、ヨーロッパなどとくらべて大きな遅れをとっている。そのような状況を打開する上でも、地震学における文理融合は、地震と火山の列島、日本のアカデミズム世界にとっては最大の試金石となるに違いない。日本の学術が、少しでもそのような方向に進むための捨て石として、本書の試みをうけとめていただければありがたいと思う。

Ⅰ大地動乱の開始ーー七・八世紀
(1)東北アジアの大地動乱・温暖化・パンデミック
(イ)最初の一撃は韓半島
(ロ)気候温暖化と旱魃・飢饉
(ハ)東北アジアのパンデミック
(2)最古の地震・噴火記録
(イ)『隋書』の記す阿蘇火山
(ロ)筑紫地震(六七九年)
(ハ)南海地震(六八四年)
(ニ)伊豆神津島の大噴火(六八四年)
(3)八世紀初期の地震と長屋王の悲劇
(イ)丹後地震(七〇一年)と遠江・三河地震(七一五年)
(ロ)藤原不比等は天智天皇の子か
(ハ)「長屋王の時代」の地震
(ニ)地震は天譴である
(ホ)長屋王、怨霊となる
(4)大仏建立の理由―河内大和地震
(イ)河内大和地震(七三四年)
(ロ)高市皇子の陵墓の鳴動
(ハ)聖武の決意ー「責め予一人にあり」
(ニ)経典にみる地震と大仏建立
(ホ)美濃地震(七四五)と紫香楽京撤退
(5)八世紀後半の火山噴火と神火
(イ)大隅海中の火山噴火ーオオナムチの神
(ロ)称徳天皇と火山・怨霊・神火
(ハ)日本と新羅の運命の分かれ道
Ⅱ大地動乱の深化と桓武の遺産ーー九世紀
(1)桓武天皇の残したもの
(イ)早良親王の死と霧島岳御鉢の噴火(七八八年)
(ロ)平安京遷都と阿蘇噴火
(ハ)桓武の蝦夷戦争の実態
(ニ)不思議な遠地津波
(ホ)有史初の富士大噴火(八〇〇・八〇二年)
(2)平城・嵯峨天皇と北関東地震の衝撃
(イ)桓武の「徳政」は本当か?
(ロ)高志内親王と兄弟の天皇たち
(ハ)北関東地震の規模と実態(八一八年)
(3)淳和天皇と京都群発地震「天災は忘れた頃にやってくる」。
(イ)淳和天皇の即位と高志内親王山陵の「不穏」
(ロ)京都群発地震(八二七年)と恒貞の誕生
(ハ)桓武山陵の祟りと出羽秋田地震(八三〇年)
(ニ)陵墓の「物恠」と淳和の退位
(4)仁明天皇とモノノケ・地震・噴火
(イ)仁明天皇の即位と皇太子問題(八三三年)
(ロ)北方の火山噴火(八三七・八三九年)
(ハ)鳥海山・大物忌神の祟り
(ニ)伊豆神津島の大噴火(八三八年)と火山の女神
(ホ)神津島噴火の「神院」
(5)地震の再開と神話の復活
(イ)阿蘇神霊池の涸渇と北伊豆地震(八四一年、承和八年)
(ロ)恒貞廃太子事件(八四二年、承和九年)と怨霊
(ハ)仁明天皇四十算賀と神話の復活
(6)地震に追われた王―文徳天皇
(イ)出羽庄内地震(八五〇年)
(ロ)東大寺大仏の仏頭落下(八五五年)
(ハ)文徳陵を襲う地震神
Ⅲ陸奥沖海溝津波(貞観津波)と清和天皇
(1)飢饉・疫病と応天門放火事件
(イ)清和宮廷と神話の復活
(ロ)「神仏習合」と祟り神・疫神
(ハ)貞観の飢饉と神泉苑御霊会の挙行
(ニ)八六四年(貞観六)の富士の噴火
(ホ)阿蘇神霊池の噴火と応天門炎上事件
(2)陸奥沖海溝地震の前兆
(イ)清和天皇と妻・高子
(ロ)別府鶴見岳・阿蘇の噴火(八六七年)
(ハ)天文は変を告げ、地理は妖を呈す
(ニ)播磨地震と京都群発地震(八六八年)
(3)陸奥沖海溝津波の襲来
(イ)陽成の誕生と地震神の託宣
(ロ)陸奥沖海溝津波(貞観津波)の襲来
(ハ)陸奥沖海溝津波(貞観津波)の被害と震源
(ニ)清和天皇―「責め深く予にあり」
(4)祇園会の開創の由来
(イ)祇園会の開始と伴善男の怨霊
(ロ)山崎断層と広峯の牛頭天王
(ハ)国家「大禍」と「神国」の祈り
(5)陸奥沖海溝地震の余波
(イ)「自余の国々」の地震、大和国
(ロ)肥後地震の誘発
(ハ)北辺の神、鳥海山の噴火(八七一年)
(6)大地に呪われた清和天皇
(イ)大極殿の炎上と神火
(ロ)出羽蝦夷の大反乱
(ハ)南関東地震(八七八年)と清和の出家
(ニ)出雲・京都群発地震(八八〇年)と清和の死
(ホ)南海・東海連動地震(八八七年)と光孝天皇の急死
Ⅳ神話の神々から祟り神へー地霊の深層
神話とそこからの離陸の時代
(1)日本神話における雷電・地震・噴火
(イ)雷電・地震・噴火の三位一体
(ロ)雷神―タカミムスヒと小童
(ハ)地震神とバルカンースサノヲ・オオナムチ
(ニ)噴火とエロスの女神ーイザナミとオオゲツヒメ
(2)祟り神・疫神・死霊
(イ)災害の三位一体と疫気
(ロ)雷神と死鬼(崇道)
(ハ)地震神・スサノヲから疫神・牛頭天王へ(伴善男)
(ニ)火山と古墳の死の女神ーイザナミ(高志内親王)
(ホ)「温気」「疫気」「粉土の鬼気(もののけ)」
(3)龍神と怨霊信仰―歴史の前進
(イ)自然神の変容――河音能平学説
(ロ)龍神の形象化
(ハ)灌漑の神としての龍神
(ニ)疫神を食う龍神
(ホ)火山の龍体の女神
(へ)龍と怨霊に守られた村
(ト)再出発ー河音の仕事から
終章、神話からの離脱と東北アジア
(1)神話の時代から君が代の時代へ
(イ)大地動乱の五〇年
(ロ)「国の大禍」とスサノヲの再追放
(ハ)君が代の歌声
(ニ)東北の復旧と蝦夷の人々
(2)東北アジアにおける「地震活動の旺盛期」の終わり
(イ)陸奥沖海溝地震から韓国慶州の地震へ
(ロ)一五世紀奥州津波と韓半島の地震
(ハ)東北アジアにおける地震旺盛期の終り

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