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他人(ひと)と関わるという事。

小山田圭吾という人物起用に再び学ぶスポーツ業界からのいじめ行為

東京オリンピック開会式に小山田さんという方が関わったらしい(注:開幕四日前に辞任)。ここで書くまでもなく、障害を持った同級生をいじめていた事を誇りにしていたらしいのです(追加:辞任後に別の雑誌で他人の死を嘲笑した記事が発覚)。

らしいと書きましたが、私は全くもって知らなかったこの氏でした。それでもオリンピックで問題化されて、それなりに表に出ている記事は一通り目を通してきました。私は氏を知らないまでもバンド名には聞き覚えがあり、音楽家としては成功した事の証であろう有名音楽雑誌でのインタビューでの事が問題となっていました。障害者いじめとオリンピック・パラリンピック仕事、絶対に交わる事のない両者が交わっている。しかも少年時代のその行いを後悔しているではなく、大人となって名を馳せてからもそのいじめを自慢している。有り得ない。信じられない。

そしてこの被害者の同級生の少年が毎年お母さんとともに書いていた年賀状、氏に出されていたというその年賀状を写真付きで載せられていました。その横にある文字が汚いだ何だとこき下ろし綴られていた当時のインタビュー記事を読んでしまった私は怒りや悲しみといった感情よりも先に自然にどっと目から涙が溢れてきてしまいました。そこに添えられていたその年賀状の写真に写された文字からは、その年賀状をその同級生が一生懸命に書いている姿、そこに寄り添っている彼のお母さんの笑顔、手伝っている姿が私にははっきりと見えてしまったのです。

これまで仕事柄、いろいろな方々とお会いして来ました。インタビューしたりされたりもして来ました。しかし幸いな事にこんなに胸くそ悪い人物、それを胸糞悪く扱う雑誌には出逢う事はなかった。犯人役の多い俳優やプロレスのヒール、そんな悪役のひと達は逆に心優しく良いひとばかりだったし、音楽を奏でているひとは味のある素敵な人々でした。そんな中にまさかこんな極悪非道な人物がリアルに存在していたなんて信じられない。しかもある程度名前が知れ渡っていたなんて信じたくもない。

私の携わらせてもらった音楽業界も芸能も、プロレスもボディビルも政治家もスポーツ選手も写真業界や出版、TV業界ですらこれまで関わった人々は全員が全員思い描いた夢を商売にして来ていました。そしてみんな夢を追い求めてそこに辿り着き、仕事にしてきた。それぞれがそれぞれに思い描いた夢を仕事にして食べていくのは大変な事だった事は言うまでもなく。しかし例えまだ若く、道半ばでもそこまで成し遂げたこれらの人々の思考には少年少女時代の後悔はあれど、いじめを自慢している奴などひとりもいやしません。そして彼ら彼女らの過去が不良であれ何であれ、今は周りの人々をハッピーにして笑顔や感動を与えてくれている。ファンだけではなく私のようにその時初めて知っただけでも虜にさせてくれている。周りにも夢を持たせてくれていました。

「この曲を聴くと心躍る」「この曲を聴くと安らぐ」「この曲を聴くと感動して涙が・・・」。「この写真を見たら泣くぜ」「すっげーよー彼のブレンバスター」...etc. そんな反応が売りの職業のはずだった。そして後に続く後輩達にも夢を持たせて道を記してあげているはずだった。

自信を持って勧められる私が出逢って来たこれらの人々は人間としても素晴らしい。ゴミを道端に捨てる奴もいなければいじめを助長する奴などいない。ひととしても超一流と胸を張れる。

振り返ってみると、親交は深くなくとも、それこそ写真撮らせてもらっただけの存在でも、私がそんな素敵な人々に出逢えてきたその確率は数字では表せないほど物凄く0に近い。しかし私は実際その方々に出逢う機会を与えてもらえて撮影して来た。でもこれって私が少年時代に出逢ってきた同級生、担任の先生や近所の人々に対しても全く同じ事が言える。奇跡に近かった出逢いであったのだと今更ながら気付かせてもらった。

私は写真学校を同級生より早く卒業してからずっと気になっている事が今も継続して心の中にあります。いまでも私が後悔している少年時代のそれはいつもいじめられていた小学4年生の時の同級生Tさんに対して。当時私は学級委員長でありながら彼女へのいじめを止めさせるでもなく、見て見ぬ振りをしているニュートラルを気取っていました。私自身は彼女が嫌いではなく、ずっとどうしたら良いかは考えてはいました。でも気にはしても何もしなかった。出来なかった。そんな当時の自分が今でも嫌で後悔の対象となっています。周りから「T菌」といじめられ、時には過呼吸を起こして。なぜ彼女を守る側にまわれなかったのだろう。そんな後悔が今の私を形成しています。

「一期一会」いちごいちえ。

広く知れ渡ってはいる茶道から来ているこのことわざ。「この出逢えたという機会は二度と訪れることのない、一生に一度きりの事、だからこその誠意を尽くす心構えが大切である」という教えは例え相手が障害を持っていようが、いじめられていようが同じ一期一会。すべての出逢えたひとが大切であると教えてくれます。

ひとがひとと関わる場合、そこには関係性が生まれます。時には利害関係や嫉妬、やっかみでいじめてくる大人は男女を問わず存在している。私は幸いにも少年時代はいじめにあいませんでしたが、大人になってからは多かれ少なかれいじめられてきました。しつこいようですが男女を問わずに。特にスポーツ業界の取り巻き達からのいじめはたちが悪かった。現場アスリート達が純粋なだけにその濁り方はよくわかりました。そんな時は常に争わずにそこから離れるに限りました。その競技には区切りをつけて遠のいた。精神衛生上にはそれが一番良い選択でした。

ひとがひとと関わるには自分の意思だけでは成り立たない事も多い。特に自分には関係ないひとが荒らしに来た場合、絡んできて揚げ足を取り言葉尻を変換して陥れる。そんなこともありました。そんな時も離れるのが一番でした。しかし離れたくない場合などは耐えていると物事は自ずと何が正しかったか自然に整えてくれた。だから自分が正しいと腹をくくれたら、いじめられようが居座るに限る。寝られない日々があろうが我が道を生き何もしないで居座る。ただどうしても自分を納得させる事が出来なかったら文章にしたためて手紙として相手に提出するようにして来ました。ただこの方法、相手がタヌキだとまたより捻じ曲げられてそこに出入り禁止、クビになりました。私の場合、大手某新聞社、名古屋のサッカーチーム、相模原のアメフトチームしかり。しかし精神衛生上は笑い話としても最適となっています。別の某大手新聞社の仕組んだ嫌がらせを国際サッカー連盟に事の真相を明らかにしようとしたら「お前ら日本人は…」と呆れられた事もありました。

これを書いている途中、前出の小山田氏の辞任というニュースが流れて来ました。叩かれて辞めたのか裏で辞めさせられたのかは知る由もなく知りたくもなく。願わくば氏にはこれからこの辞めさせられるまでの「世間のいじめ」を自慢として語り継いで、いじめた奴が後にどういじめられるという事を世に知らしめて欲しい。しかし残念ながらこんな氏がそれまでの自分がしてきた事の重大さを思い知る事は無いであろうと諦めています。表面だけ謝罪する取り巻きを含めて。

話を戻すと、離れた後に身近に起きた事として、荒らしに来た奴が原因不明の病で息を引き取った例が2人もいました。だから個人的にはそんな相手でも恨まないようにもなりました。自然はちゃんと揺れ戻ししてくれるのです。

ひととひとが縁あって出逢う、それはすべてにおいて出逢うべくして出逢った事であり、すべてが自分にプラスになっています。嫌な奴は反面教師として自分は大丈夫かと自分自身で確認するために。

例えその時は嫌な相手であったとしても、時が過ぎた頃に話のネタになれば良いと思います。ただ自分では全てにおいて反省すべきところは反省出来るように気をつけないと。そうしないと前出の氏のようにその人自身一番大切な時にしっぺ返しが訪れるということを肝に銘じないと。しかも良い死に方は決して出来やしない。

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