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卵かけご飯殻混入事件~他人様が作ったものを食べる=「信用」

卵かけご飯を作った。
(作るって程のモノではない)

不精して、ご飯茶碗のふちで卵を割り、直接卵をご飯の上に投下。
すると、割り切れていなかったのか、殻がひとかけ、黄身と白身と共にご飯茶碗に落ちていくのが見えた。

「ああー……」
思わず声が出た。

白身に引きずられるように、米と米の隙間をぬって、茶碗の底の方へと滑り込んでゆく殻。ピックアップしようとスプーンを手にしたけれど、時すでに遅し。ご飯の白色とすっかり馴染んでしまい、殻がどこにあるかわからない。どうすることもできない。

卵の殻でもシジミの砂でも、あの「ガリッ!」という食感はいただけない。あの噛んだ感触だけで、それまで感じた美味しさも台無しになってしまう。
いやだ、いやだ。ガリッ! はいやだ。

しかたがない、食べながら探そう。一口分ずつスプーンですくって、ひと匙ごとに殻の有無を確認しよう。半ばあきらめて、醤油を垂らした。醤油を垂らせば、色のコントラストで殻も見えやすくなるか? と思ったが、甘かった。全然見つけられない。

殻が粉々に割れては大惨事なので、かき混ぜる手の力も加減する。ひとすくいごとに、米と米の間までチェック。ほじくり返しながら、凝視しては食べ、凝視しては食べ、を繰り返した。

まぁなんと、おいしくないことか。

食べ方からしておいしくないのはもちろんのこと、「殻が入っている」と疑いながら(この場合は確定)食べることが、こんなにおいしくないとは。

ふと考えた。外食するにしろ親や友人が作ってくれるにしろ、誰かが作ってくれた料理には、絶対こんなことしないよな、と。
「異物が入っている」なんて疑うことはハナからしないよな、と。

作ってくれた人を信用しているから、料理をじろじろ見たり、こんな解剖まがいのこと(笑)をせず、安心して口に入れられるんじゃないか。

他人様が作ってくれたものを食べるということは、それを作ってくれた人を信用するということ。「アナタを信じています」という意思を、身体を張って表現しているのだ。

なるほど、異文化交流では特に「出されたものは食え」とよく聞く。それが友人になるための第一歩だと。

今回の「卵かけご飯殻混入事件」の場合、私は私が信用ならなかった。
食べている間ずっと、「殻はどこだ……殻はどこだ……」と、20年ホシを追い続けるベテラン刑事のように執念を燃やして、四辺1センチにも満たない殻を探していた。自分と卵かけご飯を、疑いながら食べていた。おいしいはずがない。自分にはともかく、卵かけご飯には申し訳ない気持ちになった。

結局、5分の4ほどご飯を食べたところで、殻は見つかった。小さな殻といっても重さはあるので、茶碗の底の方に沈んでいたのだ。
残った5分の1のご飯は、安心して、おいしく食べた。

教訓:卵は別の小鉢で割ってから、ご飯に投下すべし。

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