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全託、あるがまま、成るがままの落とし穴

起きてくることに抵抗せず、それに委ね、起こるがままに在る、というのは「逃避」の概念として使われることがある。
これはつい最近の自分のケースの話だが、離れて暮らしている年老いた両親、体調がよくなさそうな妻、ずっと体調が不安定な離れて暮らす妹がいて、常日頃から心のどこかで心配し、皆健康であってほしいと願っている状態であった。とくだんこの心配が苦しいと感じたことはなかったが、どこかで重さを感じていたのかもしれない。
それで私が無意識にとった行動は、あるがまま、成るがまま、全託というありかたの概念で、この状況に対処しようとしたのだ。
「全ては自然の為すこと」「神のなすこと」「あるがまま、おこるがままが自然であり、心配してもしょうがない」という解釈。

で、このように解釈するとどうなるかというと、一時的に気が楽になります。一時的に。心配していたことを全て神に預け、リリースしたような気になるからです。

しかしその後どうなるかというと、なんだか前よりももっと心が重くなってきます。
本心は心配しているのに「全託」「あるがまま」という概念で抑圧しているからです。

本当の意味での全託、あるがまま、成るがまま、というのは、この心配に完全にオープンになり、どんな解釈もせず、どんな概念でも蓋をせず、それそのものを直接経験するということ。
無心でそれそのものを受け取るということ。無条件にオープンでいるということ。

感覚というのは興味深い。
「全託」と意識して、一時的に気が晴れて軽くなるような感じが湧いてくるものの、それはそのうち消え、その後奥底からじわじわと重く濁った感じが湧いてくる。
正確に言うと、本来の心の状態は変わらず継続していて、頭によって捏造された強い「感じ」が一時的に表層に現れるだけで、すぐに減衰してもとに戻る感じ。
本当の「感じ」というのは、一時的ではなく、継続するんだな。
現象の作用、表現は正確だなぁ。
心配をオープンに感じるというのも、正確に述べれば、感じる感じないに関わらず、すでにそうなのだけれど、心がそれを嫌がって、無意識に直接感じないようにしているんだろうなー。

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