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生命、創造、人生

起きてくることがなんであれ、全体に注意する、観察するというのは、よく表現されることだか、そもそも注意や観察というのは、やろうと意図して機能するものではない(意図して機能していると思うことはできる)。
意図せずとも、注意、観察という状態は常に在るのだが(それは単純にその状態があるということではなく、イコール知覚、感覚、現象そのものなのだが)精神の部分的集中(力み)が生じることで、そこから離れてしまい、全体性が途切れてしまう。(全体性を分断・断片化してしまう)

「観察者は観察されるもの」
確か出元はクリシュナムルティの言葉だと記憶しているが、これはまさに核心をついていて、例えば、現象を観察をする、しているという行為があるとき、その行為自体がまるごと観察される対象(現象)なのである。

思考や部分への集中があるとき、それはわかりやすい力感を伴うので、それに依存しやすいし、かりそめの落ち着きを得やすい。
社会の一般的な価値観も、これを基盤としているし、この感覚をベースに学習するし、確実にこれが得られるよう訓練をするしくみになっていると思う。(学力を得、何者かになる。お金を稼ぎ充足を得る。素晴らしい異性と出会い快楽を得るなど)

なので本来の「全体性として在る」というところに回帰するのはかなり困難でもある。
それは何も掴まないことであるし、依存対象のない世界。
この社会の中で育まれてきた自身の世界観・価値観を根底からひっくり返すようなものなので。

得ようとしないときに、得られ
なそうとしないときに、なされる

という論理的には成立しない矛盾と思われる原理が、実はもともと誰にでも現象すべてに作用しているということを頭で理解するまでが相当に大変だと思う。もちろん直感の鋭いひとはこの限りではないと思うが。

頭で理解してもだめ、経験で理解しないと、などとよくいわれる。
例えば、頭だけの理屈でなく、知識ではなく。無我の体験をしないと、ワンネスの体験をしないと、悟りを得ないと本物ではないと。
しかしこれは本当にそうだろうか?

体験という状態は単なるひとつの断片的感覚・記憶であって、真理でもなんでもない。それはただその状態が経過したということであって、そこには特別な価値はない。おいしいスイーツを食べて恍惚感に浸っているのと何も変わらない。
食べ終われば元に戻る。体験は過ぎ去る。現象は無常。

なので、感覚体験をベースにわかったと思い込み、その体験を得るためのメソッドをお金をとって教えているようなあやしい人には要注意だ。

大切なのは、精神が開かれた状態を「目指す」のではなく、もともと開かれているものを阻んでいるものへの不断の気づきと理解に尽きる。
これにはゴールなどなく(生命活動、現象の変化にゴールがないように)、人間としての生命が尽きるまで延々と続くある種の修行ともいえる。
「得た」と思った瞬間に、その感覚、観念が固定され、生命の流れを阻む。

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