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韓氏意拳を学ぶ(備忘録)01

韓氏意拳をはじめた経緯

2023年10月から韓氏意拳を学んでいる。
2021年の夏ごろに、一度東京で体験講座に参加したことがあり、あまりの「わからなさ」に打ちのめされ、ひどい疲労感に襲われて、それっきりの状態だった。
僕はもともと身体の作用に興味があり、これまで整体などのボディワークや、太極拳、合気道などを興味半分でかじってきた。どれひとつとしてしっかりと学んだことはなく、長くても続いて半年くらいで、その道の大切な「何かをつかむ」前に終わっていた。「学び極める」ことへの意欲もそれほど高まらず、ある程度体験してみて、ふーん、となったところで自然とやめてしまう感じだった。
どうやって知ったかは覚えてないが、韓氏意拳はもう10年以上も前から知っていたと思う。はじめは、ネットや書籍で知り、さっと読んでもよくわからなかったのでスルーしたのだと思う。
それで、2021年に陳式太極拳を学びはじめたときに(もう止めたが)、「気」や「勁」についていろいろと調べている中で、ふたたび韓氏意拳の記事に出会った。
それが以下の記事。

この記事を読んでカツーンとした衝撃が走った。
「やばいね、これ本質じゃん!」
30代の初めからずっと奥底で感じ続けていたことを実際に体験できる武術かも!?という衝撃と期待だった。


30代の初めからずっと奥底で感じ続けていたこと「素豊」(すほう)

素豊(すほう)とは、僕が32才前後に作った造語だ。
素である状態が最も豊かであるという文字通りの意味で、なぜこの言葉を作ったかというと、この頃、ずっと心のうちでもやもやしている感覚があり、毎日通勤の時に「このうずきは何だろう?何だろう?」と自問しており、あるとき、このうずきを言葉で表現してみればうずきが収まり落ち着くかもしれないと感じ、より仔細にそれを感じ続けた結果、この「素豊」という言葉生まれたのだった。
この生まれ出てきた言葉が、今後の僕の人生でどんな役割をするのかは当時の僕には知る由もなかったが、その後24年経ち、齢56となった今では、まるでこの言葉にガイドされるようにその後の人生が進んできたように思うし、多分今後もそのベクトルで進んでいくのだろうとも感じる。
で、韓氏意拳から話がだいぶそれているように思われるかもしれないが、この「素豊」は、韓氏意拳が指し示すものでもあると直感したのだ。


韓氏意拳が指し示すもの

日本韓氏意拳学会のHPから引用。

「一用力便是錯(少しでも力を用いれば誤りである)」
「一具体便是錯(少しでも具体的になれば誤りである)」に注目します。
韓氏意拳の学術システムはすべてこの核心の学理をめぐって展開します。

出典:日本韓氏意拳学会HP「韓氏意拳紹介」より

否定的な表現に、韓氏意拳の言葉遣いの正確さが感じられる。
韓氏意拳ではこの核心が体現できている状態を、まさに「状態(じょうたい)」と表現する。
身体がどのような状況にあっても、どんな動作をしているときでも、常にこの「状態」から離れていないことが求められる。

韓競辰先生曰く
「まず状態がある時は全身が参加していること、全体が参加し整体していることです。身体の感じがバラバラに分離していないということです。」
「生まれながら完備されている完全な個体生命の始まりの部分です。一番最初がそこからです。」

出典:コ2【kotsu】特別インタビュー韓競辰導師に訊く「韓氏意拳という自然回帰」前編より

小関先生は何にも確定していない状態、未知とも表現された。

僕が「素豊」という言葉で表現している「素」とは、まさにこの「状態」のことで、現象の始原というか、基底というか、表現はいろいろできるが、まさにこのことで、そこに人知を超えた途方もない知性や運動、創造の素が在ると直感している
「そこ」に在るという表現も変で、「そこ」も「ここ」もなく、「これ」でも、「あれ」でも、「自己」でも、とにかく方向や断片を超えた全体性。「空」とも表現できそう。


韓氏意拳のユニークさ

状態から離れないこと未知にとどまること、と書くのは簡単だが、実際に稽古でやってみると、めちゃめちゃ困難。
ふつう「何か新しいことを学ぶ」ということは、形(かたち)を知り、形をまねて、そこでの感覚を実感し、その感覚をたよりに何度も繰り返し、積み上げていくことで身に付いていく、というプロセスを経ると思う。
というか僕の知る限り、世の中全般でこのやり方で学んでいると思うし、これまで僕もずっとそのやり方で学んできた。
しかし韓氏意拳では、その逆のプロセス、つまり積み上げるのではなく、積み上げてきたものを一枚一枚剥がしていくプロセスとなるのだ!!
繰り返し繰り返し動作してきたため、あまりにも自分にとって自然となってしまい、無意識下で機械的に生じる「身体動作の癖」(意識の癖も含む)に気づき、その癖を外していく作業ともいえる。
僕は初級の講習に数回しか参加していないが、正直自分の動作で何がOK(自然)で何がNG(不自然)なのかまるでわからなかった。
先生に「まだ体に起点があります」「まだ挙げようとしています」「肩を起点にして動かそうとしています」「そうそう、それです、それが自然な動きです」と指摘されても「(はぁ??。。。わからん。。。)」。

それはそう。これまでは「うまくいった時の感覚、実感」を獲得することを目途に学ぶやりかただったので、どうしても(幻想の)うまくいく実感を探してしまうから。

「一用力便是錯(少しでも力を用いれば誤りである)」
「一具体便是錯(少しでも具体的になれば誤りである)」

うまくできた(と勘違いしている)時の実感も「力」感であり「具体的」であるので誤り。韓氏意拳では。
逆に言うと、なんの手ごたえも実感もなく、やや不安げな、すっとした伸びやかな動きが正解なのだ。
なので、つかみようがない。
得られる感覚や実感がないから。
なんの手がかりもなく、未知なる状態に身心が居続けることが求められるのだ。

韓氏意拳のゴールは本当にシンプルで、未知であり続けることであり、ある意味「初心(自然)」であり続けること。
言い換えれば、身心の「自然じゃないありよう」に延々と気づき、理解し続ける過程でもある。
まるでクリシュナムルティの武術版のよう。。

こんな学び方は他にはそうそうないと思う(笑
あまりにもユニーク過ぎて、ますます面白くなっている今日この頃。

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