2020年東京大学第1問(漢字の普及と律令国家)


【設問の要求】

A:都城・地方官衙から出土する8世紀の木簡に『千字文』や『論語』の文章の一部が多くみられる理由
→官人がなぜ『千字文』や『論語』を書きつけたのかを考える。

B:中国から毛筆による書が日本列島に定着する過程において、唐を中心とした東アジアの中で、律令国家や天皇家が果たした役割
→「具体的に」という条件があるので、事例の範囲は資料文に限定し、その意義を説明できるようにする。

【資料文の整理】

(1)百済から『千字文』・『論語』が倭国に伝来
→『千字文』は習字の手本、『論語』は儒教の典籍。
(2)唐皇帝が王羲之激賞。遣唐使が王羲之の書の摸本を持ち帰る
→持ち帰られた王羲之の書の摸本は、(5)より聖武天皇ら天皇家のコレクションに収められたと判明。
(3)令の規定では、『論語』が官人教育機関の教科書となる。書博士の設置など、書の技術が重視され、写経事業などで実践される。
→律令の文書行政では、漢文の運用能力に加えて、儒教的教養が不可欠だった。写経事業は奈良期の国家仏教政策の中で推進され、現在の正倉院文書を形成。
(4)地方における戸籍・計帳・木簡の作成
→地方官人の漢字利用が律令制を支える。
(5)聖武天皇による王羲之の書の収集。光明皇后による王羲之の書の模写。空海らの王羲之の書の学習。
→天皇家による王羲之の書の受容。平安初期の遣唐使にも影響。空海が体系的な密教の修得のために渡唐したことを考えると、遣唐使による漢訳経典(≠サンスクリット語の経典)招来も使える要素として見出せる。


【解説】

 西嶋定生氏の東アジア世界論では、東アジア世界の共通の指標として、漢字・儒教・律令制・中国化した仏教(漢訳仏典)の4つがあり、漢字以外の三者はいずれも漢字によって表現される。そして朝鮮・日本・ベトナム北部は外交文書に漢字を使用するにとどまらず、自国の言語を表記するのにも中国の文字たる漢字を採用した[金子2008]。
 本問に登場する個別のトピック(律令官人による習字の痕跡や『論語』学習、戸籍・計帳の作成、国家事業としての写経事業)を、この西嶋説に当てはめて整理すると見通しがよくなる【図1】。ただし、漢字については設問Bの「毛筆の書」を意識して「書道」カテゴリとした。

【図1】

 赤線で囲んだのが律令制に関係するトピック、青線で囲んだのが天皇家の推進した事業に関するものである。地方官人の文字使用については設問Aで重点的に扱うので、設問Aで儒教・律令制、設問Bで書道・仏教の要素を説明するのが良いだろう。
 以下、設問別に必要な要素を検討する。

〔設問A〕
 律令制の文書行政を進めるために、中央・地方の官人は漢字・漢文の運用能力に加えて、儒教的教養を身につける必要があった。

「律令制は文書によって官司どうしが連絡しあう文書主義を特徴としていたから、律令官人には、漢字・漢文の読み書き能力中国的な儒教の教養が必要とされた。地方の国府・郡家でも、中央官司と同様に漢字能力と儒教を身につけた膨大な数の下級官人が必要であった。」

[佐藤2018,124頁]

 したがって、官人たちは業務の合間に『千字文』(漢字の練習)と『論語』(漢文の練習+儒教の教科書学習)の一節を木簡に書きつけねばならなかった。

〔設問B〕
・「唐を中心とした東アジアの中で」
唐で模範とされた王羲之の書が、遣唐使を介して日本の天皇家にも受容された点を指摘する。
・「律令国家や天皇家が果たした役割」
①「律令国家」は文書行政推進のために、書博士・書学生を置き、書道教育を整備した。
②「天皇家」は王羲之の書の収集・模写など、唐で規範的な書法の受容に努めた。また、国家仏教政策の一環として写経事業を推進した。書写対象となる漢訳経典は、(5)の遣唐使空海の指摘から、遣唐使が招来したと推測できる。
※諸国の国分寺で読誦が命じられた金光明最勝王経は、養老2年(718)に道慈がもたらしたとされる(「金光明最勝王経」『国史大辞典』)。なお道慈は大宝2年(702)に入唐した。

これにより、中国の書が日本の中央のみならず地方においても普及したことを結論に持ってくればよい。

【解答案】

A律令官人は文書行政の担い手として、文書の作成・読解のために漢字・漢文の運用能力に加えて、儒教的教養を備える必要があった。(60字)
B遣唐使は唐で模範とされた王羲之の書や、漢訳経典を日本に招来した。前者は天皇家により収集・模写され国内の書の模範となり、律令官人への書道教育を通じて、中央から地方に普及した。後者は聖武朝を中心とする写経事業を通じて、全国で書写・保存された。(119字)


【あとがたり】

 設問Bにおいて、資料文(5)の空海より、漢訳経典招来を導いたのはやや強引である。空海の使命は体系的な密教を日本に導入することにあったのであり、聖武朝の国家仏教政策とは必ずしもリンクしない。拙解答案は西嶋定生説の「漢訳経典」にヒントを得て、(平安初期)空海―密教経典の招来―漢訳経典―(奈良時代初期)金光明最勝王経―国家仏教政策の下での書写事業、というアナロジーを下敷きにしており、これが作問者の意図に合うものであるかはやや心許ない。諸賢の御教示を乞う。

【参考文献】

・西嶋定生『古代東アジア世界と日本』岩波現代文庫、2000年
…未読につき、後日増補の要あり。
金子修一「古代東アジア研究の課題―西嶋定生・堀敏一両氏の研究に寄せて―」『東アジア世界史研究センター年報』1号、2008年
・渡辺晃宏「日本古代の習書木簡と下級官人の漢字教育」(高田時雄編『漢字文化三千年』臨川書店、2009年)
…未読。八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書、2023年)により知る。
・佐藤信「地方官衙と地方豪族」(佐藤編『古代史講義』ちくま新書、2018年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?