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ちょいちょい書くかもしれない日記(原作のこと)

自分の著作を他のメディアで展開していただく機会は、とても嬉しいものだ。
本来ならば自分の力が及ぶ範囲でしか作れない作品世界を、他人様の力によってぐんと広げていただけるのだから、嬉しくないはずがない。
他の作り手の方の目を通して、私が知らなかった作品の側面や、新しい魅力を教えてもらえるのも嬉しい。
正直、他人の作品を、自分のテイストと馴染ませながら新しい世界に息づかせることができる人を、尊敬してもしきれない。
凄いスキルだと思う。
時には気に入らない展開や、自分ならこうはさせんぞな的なキャラクターの言動などもあるだろうに。
創作に対するモチベーションを維持するというのは、大変なことだ。

私は自著を他人様に託すとき、「原作を大切にしてください」とだけお願いする。
小説を他の媒体で展開するとき、そのまんまというのはおそらく無理だ、というのはこれまでの経験でわかっている。
土が変われば、咲く花の色も微妙に変わる。何らかの変更は必要なのだ。
それがキャラクターであるのか、台詞であるのか、舞台設定であるのかはわからないけれど。
ただ、原作を大切に思い、よく読み込んで理解してくれていれば、変更したい・したほうがいい・しなくてはならない箇所は自ずとハッキリするだろう。
変更しても、物語の空気感や軸を損なわずに済む、あるいは傷や違和感を最小に留める工夫だってできるだろう。
新たな要素を加えることで、そうしたダメージを補い、むしろよいアレンジとすることもできるかもしれない。
たとえば拙著「最後の晩ごはん」のドラマも、原作とは違うところがたくさんあった。
でも、収録前に、夏神役の杉浦太陽さんと海里役の中村優一さんは、料理の稽古をする時間をわざわざ取ってくださったそうだ。
適当に誤魔化そうと思えばできたのに、定食屋の人たちを演じるにあたり、自分たちで実際に食材に触れ、調理する経験が必要だと考えたから。
「原作を大事にする」のひとつの形だと思う。とても嬉しかった。
誰もが気に入るドラマ化などあり得ないが、敢えてチャレンジしてくれたことにもその結果にも、私はずっと感謝し、お世話になった方々の今の活動も、陰ながら応援し続けている。
本当になんもできないけれど。

これまでに経験したいくつかのケースては、「そりゃないよ」な事件も起こった。
たとえ私の知らないところで問題が起こり、こじれたのだとしても、結局のところ、責は私が負わねばならないのだと思う。
生みの親でありながら、作品を守り通せなかったという事実。
それは、特大の罪だ。
いくら「仕方がなかった」「不幸な行き違いの連鎖だ」「あなたは何も悪くない」と言われようと、自分自身が許せない罪なのだ。
自分で自分を罰したくなる。たとえ外から見えなくても、嫌になるほど丹念に、心を切り刻んでしまう。
この感覚は、同じ経験をした同業者しかわからないのかな。そうかもしれない。

原作は、トレーニング用の教材でも、使い捨てのコンテンツでもない。
原作を違う世界に羽ばたかせる仕事は、とびきり繊細なバランスが必要な、とても難しいものだ。
そうした作業を支える仕事だって、きっと心をすり減らす、大変なものだ。
お互いに、大事に思おう。
本物の敬意を持とう。
そんな風に願う日だった。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。