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立場と言語の綾

インドの映画監督、ロヘナ・ゲラの長編作品『Sir』(邦題:あなたの名前を呼べたなら)を観た。

ゲラ監督自身、ムンバイ出身である一方アメリカで大学教育を受けた経歴を持っている。

インドにおいて未だ根強く残っている階級制度や村社会の因習に対して、批判的に切り込む力作となっている。

建設会社の御曹司であるアシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)は、とある女性と結婚する予定だった。だがその女性の浮気が発覚し、新婚生活を送る予定だったマンションの一室に一人で住むことになったアシュヴィン。彼はメイドとして雇われることになったラトナ(ティロタマ・ショーム)と徐々に距離を縮めていく。

物語の内容自体は、非常にシンプルで分かりやすいものになっている。

しかし、近代都市として高度に発展した現在のムンバイの情景のなかで、いわゆる高層マンションで生活する富裕層の人々と、そのメイドとして村から働きに出てくる人々がこのような形で共存しているという現状があることを、この映画で初めて知ったのがまず最初の驚きであった。

映画が始まってすぐに気づくことがある。この映画では二種類の言語が使用されている。英語とヒンディー語(正確にはヒンディー語とマラーティー語)だ。

同じマンションで働いているラトナのメイド仲間や受付の男性らは、お互いにヒンディー語を用いて話している。また、ラトナとアシュヴィンもヒンディー語で会話を行う。

しかし、アシュヴィンの部屋に母親が来訪するシーンで、二人は英語で会話を始めるのだ。最初その光景を見たときは、メイドのラトナに会話の内容を聞かれないようにするためだろうか、と私は思った。

だがその後のシーンでアシュヴィンと父親が建設現場で会話をするシーンでも、つまり私的に会話を行う場合でも彼らは英語を使用するのだ。

英語で話すという行為は彼らにとって、社会的立場を保証するための一つのステータスなのかもしれない。というより、ステータス「になった」のだろう。

実際、現在のインドでは英語が話せるかどうかということが、そのまま社会階級の位置決定と密接に関わるようになっているようだ。

英米圏のシステムに適応してうまくやる、というのがグローバル資本主義社会で経済的に成功するには最も効率的な方法ではあるだろう。しかしインドの一地方、村社会のなかでは英語が必要な場面などほとんどないだろうし、何よりもまず、英語を学ぶための教育を子どもに受けさせることも彼らには大きな負担になる。血縁的な因習によって、自立的に生きるという選択をすること自体が難しい場合も多いだろう。

英語と母語の使い分けという表現が、そのまま社会階級を表すことになるということは非常にリアルだし、これはインドだけに収まる問題ではないだろう。

ところで、私はよく牛丼屋や定食屋のチェーン店に行くのだが、中国やインドからやってきたであろう店員さんをよく見かける。

おそらく他のどの国の母語とも、文字の種類や文構造があまり似ていない日本語という言語は、習得するのに非常に苦労を伴う言語だろう。その度に、店員さんがある程度の日本語を理解でき、会話ができる時点でいつも脱帽の念を抱く。

ある言語を習得するということは、それだけ自分の生活圏を拡張できる可能性が上がるということだ。しかし日本におけるこうした移民の就労状況は、実感的にはとても良いものとは思えない。ある程度日本語を習得しても、その習得にかけた時間と労力に見合うだけの仕事が多くの移民に配分されないという現状がある。

今作のインドにおける言語使用のあり方を通じて、異国の言葉で生活するということを、自分の生活の中でこんな風に考え直さざるを得なかったのだった。

映画の内容に話を戻すが、今作は以上のような社会問題を描き出すことにとどまっているわけではなく、とにかく画面内の色彩がとても美しく、細かに計算されて撮られているように感じられる。

アシュヴィンの住むマンションの一室の色彩は、どの色も鮮やかだがグレーがかっているようで、大地を思わせる落ち着いた上品さが漂っている。

そしてファッションデザイナーを夢見ているラトナが作るシャツやドレスを含め、彼女が尋ねる生地屋の店内、そして織物の生地も非常に目を惹くものになっている。

彼女のデザイナーを目指す意志は物語を展開する鍵ともなるのだが、詳細はぜひ映画を見ていただきたい。

一枚の布、あるいは複数枚の布から織り上げられる洋服は、それを纏う人間の身体に寄り添い、布地の綾を生きたものにする。それらの綾もまた、様々な色彩からなる多くの糸を織り成すことによって生まれるものだ。

社会的な立場を超えて距離を縮めていく二人の関係もまた、繊細な綾をなす一枚の織物のようだ。


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