見出し画像

技術の進歩がもたらす危険


「ITで変えられないものはなんですか?」

某大手IT企業の採用担当者に、就活中の私は生意気にも質問した。

「それ以外のものはITで変えられるのでは、と思って」

補足するように付け足したものの、明らかに困らせてしまった。私も新卒採用担当を過去3年間ほどしていたが、この手の質問は何か試されているようで苦手だ。

「いい質問ですね」
好意的な第一声をいただいた後、何を話したかは覚えていない。おそらく、あまり納得のいく答えではなかったからだろう。


巷ではチャットGPTをはじめとするAIの業務使用が現実のものとなり、目まぐるしい技術の進歩を実感せざるを得ない。

近い将来、母国語さえ学んでいればプログラミング言語も英語も学ぶ必要がない。そんな時代が来ると言われている。
ただ、言語学や文化人類学と呼ばれる分野を学んできた身としては、少し危機感を覚えている。


危機感の内訳は主に2つある。

1つ目は、多様性のある文化が画一化されてしまうのではないか、という点だ。

「バベルの塔」の物語をご存知だろうか。
旧約聖書の創世記に書かれた有名な物語で、内容はいたってシンプル。
世界ができてまだ間もない頃、人類が単一民族で、全員が同じ言葉を話していた頃。天にも届く高い塔を皆で建てようと人々は計画し、着々と建造が進んでいった。それを見た神が傲慢だと怒り、人々の話す言語をバラバラにした。

バラバラにすることをヘブライ語で「バラル」という。諸説あるが、バベルの塔の名前の由来はこの言葉からきている。
かの有名な「バルス」もこの辺りからきているのではないかと推測している。

言語がバラバラになった結果、人々は意思疎通が難しくなり、塔の建造は中止になった、というのが物語の結末だ。
ここから何を教訓とするかは人それぞれだが、一般的には人の傲慢さを戒める文脈が多い。

一言語のみの習得に落ち着くことは、人の傲慢な部分を助長させないか。
今よりも格段にできることが増えると、何でもできると錯覚してしまいがち。犯罪に悪用するリスクも増えそうだ。

これが1つ目の懸念。

もう1つの懸念は、本来正解のない言語に正解・不正解ができてしまうことだ。
何を話すにも機械を通さなければコミュニケーションが取れなくなってしまうのではないか、という危機感を持っている。

今の若者を見てほしい。インターネットの技術が発達して、わからないことは何でもまずネットで検索することに慣れている世代だ。
そもそも人と話す機会が減っている若者は人間関係構築スキルが上の世代と比べて低下している。個人差はあるが、20代の私でもコミュ障が多いと感じるのだからたしかだ。

また、たいていのことはインターネットに書かれているため「調べてみて、わからなかったら質問する」ということにも慣れている。
結果、社内ルールや個人の思考・嗜好など、誰かに聞かなければわからないことを聞く、というハードルが非常に高くなっている。

今でもface to faceのコミュニケーションが減っている状況なのに、加えて言語表現が機械にわかりやすいよう画一化されていくとどうなるだろうか。
その画一化された表現以外の言葉はまるで、間違っているように捉えられてしまうのではないだろうか。

失敗を恐れて機械に正解を聞くため、話すよりも文字での会話が中心になる時代がくるかもしれない。



とはいえ、嘆いても技術の進歩は止まらない。
では、どうすればこの危機に対するリスクを減らすことができるだろうか。


最も大事なのは小中学生までの義務教育だと考えている。
GIGAスクール構想もあり、ipadなどの電子機器を教育現場で使うことは今後ますます日常化していく。AI技術の使い方を学ぶと同時に、自分を律するセルフコントロール力を磨いていくことが必要だ。

セルフコントロール力は、自分の感情をコントロールする力であり、大人でも難しく、修行にも似た長期間での取り組みとなる。
機械は、指示命令に何でも従ってくれるため自分の感情が掻き乱されることも少ない。すると、対人で重要な感情をコントロールする力がなかなか身に付かない。思い通りにいかないとすぐキレてしまったり、叱られても過剰に落ち込んでしまったりなどしてしまうと、自然と人と話すことから距離をとってしまう。
私の恐れている現象だ。

一度人から遠ざかってしまうと、また近づくためには相当な労力が必要になる。そのため、セルフコントロール力を幼い頃から磨くことでコミュニケーションを活性化させたい。

そして、この力を手っ取り早く身につけるには多様な人と話し、関わることが一番だ。

何が好きなのか、嫌なのか。その差を個性と捉えて尊重できるか。排他的になるのではなく、寛容に受け止める力を養うこと。これこそが、技術が進歩しようと一線を超えずに踏みとどまれる倫理観の源泉になると思う。


もちろん、すべてを学校教育でカバーできるとは思っていない。これには大人も子どもも、周りの人に好奇心を持って接することが重要だ。

技術と共に人が手を取り合える未来のために、
私たちは何ができるだろうか。
技術進歩の恩恵を受けつつ、人が人らしく生きるためのヒントを皆さんからもぜひ教えてほしい。

よければ、次の記事執筆のネタにお使いください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?