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ディミニッシュ・セブンス

12歳で同じクラスの太郎を好きになった時、これが初恋かと思った。初恋は実らないと言うけれど、この恋は実るのだろうかと他人事みたいに考えていた。付き合いたいだとかそういう気もわかなかった。実らない、もしくは実ったとしてもいつかは枯れるものだ、そういうものだと太郎を好きになる前から私は知っていた気がしたのだ。夏休みが終わってから、太郎は隣の二組の女の子と付き合いだした。冬になる頃には、私は太郎のどこを好きになったのかすらはっきりと覚えていなかった。

15歳で塾が一緒だった二郎を好きになった時、こんなの一瞬の気の迷いだと思った。高校受験を控えており毎日勉強詰めだった私の気は確かではなかった。ある日偶然にも塾の帰りに一緒になったことがあり、勢いで好きですと口走ってしまった。告白なのか何なのかわからないそれをきっかけに、塾の終わりに毎日二郎と帰るようになった。会話は弾んだり弾まなかったりした。それなりに楽しく、充実していたけれど、受験が終わり塾をやめてからそれきり二郎に会うことはなかった。思えば、塾と二郎はセットで、塾がなければ二郎を思い出すこともない、そんな程度だった。

16歳で高校の一学年上の三郎と付き合った時、いつも別れの予感が頭にちらついていた。自分より一年早く大学生になる三郎が自分のことを忘れてしまうことなどとっくに予想がついていた。三郎は私に「ずっと一緒にいようね」「一生しあわせにするよ」と大真面目な嘘ばかり言った。私は一生、という言葉もずっと、という言葉も全く信じていなかったから、生返事しかできなかった。そんな私を大学生になった三郎が忘れてしまうのは一瞬だった。連絡が途絶え、あっけなく終わった。今はどんな子に「一生しあわせにするよ」と言っているのだろうなと思いを馳せて、恋愛って虚しいもんだなと思った。

22歳で四郎を好きになった時、これが本気で人を好きになるということかと目から鱗だった。これまでと全く違う、心を預けるとは、人を信用するとはこういうことなのかと実感した。「ずっと一緒」「一生しあわせにする」という言葉を信じたくなる祈りのような気持ちがはじめて理解できた。嫉妬という感情も手に入れた。一度理解すると、愛し愛されるという事実を当たり前のことにしたくなった。四郎とずっと一緒にいたい、最終的には結婚したいと望むようになった。人生ではじめて人に夢中になった。

26歳で四郎と別れた時、人生って面白いなと涙をこぼした。互いに好きだからといって全てを分かり合えるわけではないのだと改めて理解した。人を好きになるってなんて滑稽なんだろう、馬鹿みたいだなと泣きながらひとり笑った。いくつになっても人と人は簡単にくっついて簡単に離れる、そして性懲りも無くまたくっつく。そのたびに何かが少しずつ減っていき、そのたびにより自由になり、そのたびにどこへでも行けるようになる。

27歳で五郎と付き合い、28歳で五郎と別れ、29歳で六郎と付き合いそして別れた。人を好きになろうと思えばいくらでも好きになることができる。寂しさを埋めたければ同じように寂しい人間がそこらじゅうにいる。気軽で手軽な時代だから、恋愛をしようと思えばきっとそれに近いものはいくらでも手に入る。でも、そこに運命なんてもんはないし、気まぐれの巡り合わせで恋愛になったりならなかったりする。その場の雰囲気で手を繋いだり離したり選んだり選ばれたりする。人を好きになるとは、どういうことだっただろう。恋愛に恋愛以外が大きく絡んで身動きがとれなくなってしまったのはいつからだろう。いつか別れるというその「絶対」だけが安心できるお守りだったころの幸福を、私はもう二度と知ることはできないのだと思う。


大人になるごとに子どもに戻ってゆく。ふざけた付き合いもまっぴらで、無駄に利口になって。ディミニッシュ・セブンス。等間隔に並んだ音たちがこんなに不安定に響くなんてね。健全に完全に見えて、全然綺麗じゃない。なぜだろう、自由なのにとても不自由だ。まったくの他人を信じる強さが私のどこにも見当たらない。誰の声も聴こえない静かな夜、耳の奥でたった一つのコードが鳴っている。不安定に安定している。見えないものは見えない。手に入らないものは手に入らない。届かないものは届かない。望みが叶うことと幸せに結びつくことはイコールではない。総合的に見てバランスの取れた世界だと思う。








ゆっくりしていってね